永禄7年 1564年 7月3日 |
松平元康が小笠原広重の寺部城(三河国)を安堵する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第191「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原広重」の項 |
永禄7年 1564年 7月6日 |
伏見殿が六角堂所蔵の太子絵伝5幅の事書を読む。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 7月13日 |
山科言継が大坂本願寺に赴くため京都を発つ。鳥羽(山城国)にて乗船。淀(山城国)にて大船に乗り換える予定であったが、大坂行きの船がなく交渉するもかなわなかったため山崎(山城国)まで赴き水無瀬(摂津国)にて逗留する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 7月14日 |
山科言継が水無瀬(摂津国)を発ち、橋本(山城国)にて船を用意する。若槻伊豆守の過書を用意し、巳下刻(10時)に乗船。申刻(15-17時)に大坂の烏丸亭に到着する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 7月18日 |
巳下刻(10時)、山科言継が住吉・堺を見物。堺南荘の旭蓮社に参詣。塩風呂町の宿に宿泊する予定であったが、宿がよろしくなかったため弥左衛門(和久与助)のもとに宿泊する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 7月18日 |
巳下刻(10時)、山科言継が住吉・堺を見物。堺南荘の旭蓮社に参詣。塩風呂町の宿に宿泊する予定であったが、宿がよろしくなかったため弥左衛門(和久与助)のもとに宿泊する。 堺南荘の東堀の普請が行われる。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 7月24日 |
三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。 |
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」 |
永禄7年 1564年 7月25日 |
山科言継が大坂に戻り烏丸亭に入る。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 8月11日 |
山科言継が若江荘(河内国)一宮の遷宮法楽猿楽見物のため、辰刻(7-9時)に大坂を出立する。辰下剋(8時)、上洛のため若江荘を発つ。枚方(河内国)にて昼休憩をし、山崎(山城国)にて酒を飲む。申下刻(16時)に帰宅する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 9月1日 |
朝倉景鏡・朝倉景隆が加賀国に侵攻する。 |
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条) |
永禄7年 1564年 9月9日 |
織田信長が井口(美濃国)付近に砦を築くよう命じたこと、金山城(美濃国)を攻略したことを直江景綱に伝える。 |
出典:(永禄7年)9月9日付織田信長書状案(『歴代古案』1、『織田信長文書の研究』上巻48号 |
永禄7年 1564年 9月12日 |
朝倉義景が一向一揆が支配する加賀国に総大将として出陣する。 |
出典:『当国御陣之次第』(『加能史料』14 永禄7年9月条) |
永禄7年 1564年 9月17日 |
本折(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。 |
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「大阪青山短期大学所蔵文書」)他 |
永禄7年 1564年 9月20日 |
鵜谷口(加賀国)にて、朝倉義景と加賀一向一揆が戦う。 |
出典:(永禄7年)10月13日付朝倉義景感状(『加能史料』14 永禄7年9月条 「花倉家文書」) |
永禄7年 1564年 10月25日 |
土佐光茂が山科言継のもとを訪れ、『源氏物語』首巻を求める。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 11月1日 |
山科言継が大黒像を作製するために祇園社の山本のもとに大澤出雲守を遣わし橋の板を求める。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 11月3日 |
山科言継が仏師・侍従に長橋局と言継用の大黒像2躯の作製を命じる。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 11月12日 |
綿屋文益が山科言継のもとを訪れ、御祓箱、長鮑100本を贈る。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 11月13日 |
山科言継が仏師 侍従に作製を命じていた大黒像(1寸30)が完成する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 11月19日 |
分部光定が分部城(伊勢国)にて死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第392「分部光定」の項 |
永禄7年 1564年 11月21日 |
東寺塔造営の奉加を募るため、東寺にて空海着用の袈裟・念珠・脇息・剃刀箱・水瓶を出展する。山科言継が空海の遺品を見物するべく東寺に参詣する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 11月22日 |
東寺塔の作事始めとして儀式を執り行う。 |
出典:『言継卿記』同年月24日条 |
永禄7年 1564年 12月1日 |
春日名号の掛け軸をかけ、笛(笛名:神楽)を吹く。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄7年 1564年 12月19日 |
池田輝政が尾張国清州城にて生まれる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項、『有斐録』「元」 |
永禄7年 1564年 12月26日 |
大坂本願寺が焼失する。 |
出典:『言継卿記』同年12/27条 |
永禄7年 1564年 -月-日 |
弟・直盛が美濃国厚見郡にて生まれる。 |
出典:- |
永禄7年 1564年 -月-日 |
榊原康政に与力として伊藤正照、伊奈広質、中島右衛門佐が付される。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項 |
永禄7年 1564年 -月-日 |
島津義弘が伊東義祐への抑えとして飯野城(日向国)に入る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項 |
永禄8年 1565年 -月-日 |
大谷吉継が生まれる。 |
出典:- |
永禄8年 1565年 -月-日 |
長宗我部信親が生まれる。 |
出典:- |