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天正4年 1576年 -月-日
野村祐直が生まれる。
*『菅氏世譜』に文禄1年(1592)に「野村市右衛門祐直時に十七歳」と記載されていることから、逆算して生年を天正4年(1576)とした。
出典:『菅氏世譜

天正4年 1576年 -月-日
子・康親が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第4「松平康親」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第4「松平康親」の項

天正4年 1576年 -月-日
野呂守景が初めて徳川家康に対面する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1153「野呂守景」の項

天正4年 1576年 -月-日
加藤重常徳川家康に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第776「加藤重常」の項

天正5年 1577年 -月-日
松平家広が生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項

天正5年 1577年 -月-日
藤堂高刑が近江国にて生まれる。
出典:-

天正5年 1577年 -月-日
井上正就が生まれる。
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天正5年 1577年 -月-日
堀直寄が生まれる。
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天正5年 1577年 -月-日
木下延俊が尾張国にて生まれる。
出典:-

天正5年 1577年 -月-日
奥平家昌が生まれる。
出典:-

天正5年 1577年 -月-日
稲田示植が生まれる。
出典:-

天正5年 1577年 -月-日
東条長頼が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第168「東条長頼」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第168「東条長頼」の項

天正5年 1577年 1月1日
勧修寺晴右が死去する。
出典:『兼見卿記』同年月4日条、『系図纂要』「勧修寺」

天正5年 1577年 1月2日
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 1月5日
右大弁となる。
出典:『系図纂要』「烏丸」

天正5年 1577年 1月6日
一乗院尊政が供の者200名を連れ、矢田より法隆寺に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 1月7日
伊達晴宗の居城・杉目城(陸奥国)にて連歌会が行われる。参加者は伊達政宗
出典:『性山公治家記録』同年月日条

天正5年 1577年 1月8日
吉田兼見が因幡薬師に参詣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 1月10日
小早川隆景船越景直宛の書状で安宅神五郎の忠儀を賞す。
出典:(天正5年)1月10日付小早川隆景書状写(『戦国遺文』三好氏編3巻-1749号、「船越文書」))

天正5年 1577年 1月14日
織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 1月15日
公家衆が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 1月16日
上泉信綱が死去する。
出典:-

天正5年 1577年 1月18日
左中弁となる。
出典:『系図纂要』「中御門」

天正5年 1577年 1月22日
公家衆が織田信長のもとに礼に訪れるも、信長は対面せず。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 1月25日
織田信長安土城(近江国)に帰城すべく京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 2月7日
筒井順慶東大寺二月堂に参籠する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 2月8日
織田信長が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 2月8日
大乗院尋憲が上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 2月8日
蔵人頭となる。
出典:『系図纂要』「中御門」

天正5年 1577年 2月9日
織田信忠が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため尾張衆・美濃衆を率い岐阜城(美濃国)を発ち柏原(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

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