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出典 :   


天正5年 1577年 2月9日
織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月10日
雑賀郡攻めのため上洛中の織田信忠蜂屋頼隆所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月10日
吉田兼見が織田信長のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 2月11日
守山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月13日
織田信長が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、子・信忠北畠信雄神戸信孝等とともに京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月13日
織田信長が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
細川藤孝忠興父子が織田信長の雑賀郡(紀伊国)攻めに加わるべく出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 2月14日
雨のため織田信長は石清水八幡宮に滞在する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月15日
織田信長が和泉国に入る。(『多』)
石清水八幡宮を発ち若江(河内国)に陣取る。(『信』)
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月16日
織田信長が香庄(和泉国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月16日
細川忠興松井康之有吉立行・米田求政・志水新之丞が貝塚(和泉国)より撤退する紀伊勢を追撃する。
出典:『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 2月17日
織田信長が貝塚(和泉国)に籠る一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月18日
根来寺杉坊が織田信長のもとに礼に訪れる。信長は佐野(和泉国)に陣を移す。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月21日
山科言緒が生まれる。
出典:『諸家伝』

天正5年 1577年 2月22日
織田信長が志立に陣を移す。信長は、軍勢を山手と浜手に分け雑賀(紀伊国)に攻め寄せる。山手には佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治、別所孫右衛門、堀秀政稲葉良通氏家直昌、飯沼勘平を遣わす。浜手には滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月22日
織田信長が志立に陣を移す。信長は、軍勢を山手と浜手に分け雑賀(紀伊国)に攻め寄せる。山手には佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治、別所孫右衛門、堀秀政稲葉良通氏家直昌、飯沼勘平を遣わす。浜手には滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶を遣わす。
長尾・淡輪にて滝川一益・筒井順慶・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・細川藤孝が雑賀衆と戦う。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 2月22日
長尾・淡輪の戦いに細川藤孝勢として参加する。
出典:『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 2月28日
織田信長が淡輪(和泉国)に陣を移す。中野城の城兵が降伏する。中野城は織田信忠が請け取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 2月30日
織田信長が淡輪(和泉国)を発つ際、細川藤孝家臣・下津一通を召し出し、長尾合戦の一番槍の功と先年、岩成友通を討ち取った功を賞し、一通の指物である青颯纚は一通のみに認めるとする。
出典:『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月1日
織田信長の雑賀城(紀伊国)攻めに細川藤孝勢として参加する。
出典:『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月1日
織田信長滝川一益明智光秀蜂屋頼隆細川藤孝筒井順慶、若狭衆に鈴木重秀の居城・雑賀城(紀伊国)の攻撃を命じる。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月2日
織田信長が鳥取郷(和泉国)の若宮八幡宮に陣を移す。堀秀政不破光治丸毛長照、武藤惣左衛門、福富秀勝、中条将監、山岡景隆、牧村長兵衛、福田三河、丹羽氏勝、水野大善、生駒市左衛門、生駒三吉等を根来口に遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月5日
直江景綱が死去する。
出典:-

天正5年 1577年 3月9日
福留親政が伊予国にて戦死する。
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書

天正5年 1577年 3月12日
左近衛大将となる。
出典:『系図纂要』「徳大寺」

天正5年 1577年 3月15日
筒井順慶が雑賀郡攻めより帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 3月-日
土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月21日
織田信長が雑賀郡(紀伊国)より天王寺に陣を移す。(『多』)
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正5年 1577年 3月22日
織田信長が香荘に逗留する。雑賀衆に備えるため、佐野村(和泉国)に築城を命じ、佐久間信盛明智光秀丹羽長秀羽柴秀吉荒木村重を置き、根来寺杉之坊、津田太郎左衛門を定番として置く。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月23日
織田信長が若江(河内国)に帰陣する。
天王寺屋龍雲が所持する化狄、今井宗久所持の二銘の茶杓を召し上げ、宗久所持の開山之蓋置を進上させる。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」

天正5年 1577年 3月24日
織田信長が石清水八幡宮に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」

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