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事項 :   
出典 :   


天正8年 1580年 5月21日
筒井順慶春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 6月1日
青蓮院尊朝が青蓮院領の鞍馬寺別当職を織田信長より安堵される。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正8年 1580年 6月5日
夜中、宇野祐清が宍粟郡(播磨国)より逃亡する。木下平太輔、蜂須賀正勝が追撃する。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」

天正8年 1580年 6月8日
松平家忠深溝城(三河国)より出陣し吉田城(三河国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年? 1580?年 6月9日
大坂本願寺籠城を継続する教如が、越中・加賀の門徒衆の非協力の状況を糺すため寺内素休と井上善五郎を勝興寺に遣わす。
出典:6月9日付教如書状(『越中真宗史料』一 中世「勝興寺文書」)

天正8年 1580年 6月9日
松平家忠深溝城(三河国)より出陣し浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月10日
徳川家康が、高天神城(遠江国)を攻めるべく、浜松城(遠江国)を出陣し、横須賀(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月10日
徳川家康が、高天神城(遠江国)を攻めるべく、浜松城(遠江国)を出陣し、横須賀(遠江国)に陣取る。松平家忠は鎌田に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月11日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻に砦を築く。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月12日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月13日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月14日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月15日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月16日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が鹿鼻砦の普請に従事する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月19日
松平家忠深溝城(三河国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 6月17日
蘆名盛氏が死去する。
出典:『蘆名家記』巻第1「蘆名家滅亡濫觴之事」

天正8年 1580年 6月17日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が普請にあたっていた鹿鼻砦の終了する。家忠が同城の根小屋を放火する。板倉定重が戦死する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月18日
高天神城(遠江国)を攻めていた徳川家康勢が青田刈をする。徳川勢の三河衆は浜松城(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 6月24日
織田信長安土城(近江国)にて相撲を催す。織田家一門衆が見物する。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 6月25日
徳川家康高天神城(遠江国)攻めで法度に背いた小姓・大須賀弥吉を切腹させる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 6月26日
長宗我部元親明智光秀の執奏のもと織田信長に音信として鷹16連、砂糖3000斤を贈る。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正8年 1580年 6月30日
織田信忠安土城(近江国)に赴く。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」

天正8年? 1580?年 7月2日
横田重恒等が、6月9日に勝興寺に遣わされた寺内素休・井上善五郎に、大坂本願寺籠城(「大坂拘様」)を続ける教如の無事と、越中下向後の二人が大坂へ越中の情勢について報告がないため不審に思っていること、松倉城(越中国)に在番している河田長親に大坂本願寺籠城が困難であるため支援を依頼するように命じる。
出典:7月2日付横田重恒他連署状(金龍静『一向一揆論』(吉川弘文館、2004年)史料編-62号 「慈明寺文書」)

天正8年 1580年 7月2日
本願寺顕如織田信長に礼をする。使者は藤井藤左衛門、八木駿河守、平井越後守。勅使の近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が藤井等に付き添いをするため、織田信忠顕如からの礼物である太刀代銀子100枚を贈る。松井友閑佐久間信盛が披露。織田信長は本願寺の使者および勅使に対面せず。
出典:『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」

天正8年 1580年 7月5日
筒井順慶が近江国に赴く。
出典:『多聞院日記』同年月7日条

天正8年 1580年 7月17日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠深溝城(三河国)より出陣し、二川に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月18日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月19日
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が見付(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月20日
筒井順慶が上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月20日
高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、掛川(遠江国)に入る。徳川勢は掛川・山口(遠江国)に布陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

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