天正20年 1592年 1月5日 |
豊臣秀吉が加藤清正、小西行長を召し出し、朝鮮出兵につき、清正に鍋島直茂・相良頼房を付し、行長に宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄を付すことを伝える。また、清正に朝鮮国内での制札、軍書、南妙法蓮華経の旗を、行長に朝鮮国内での制札、軍書、馬(銘 大黒)を与える。 |
出典:『清正記』巻2 |
天正20年 1592年 1月7日 |
仙石秀久の祈祷のため某が北野社にて御百度詣りをする。 |
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正20年 1592年 1月14日 |
島津龍伯が薩摩国の自宅に到着する。 |
出典:(天正19年)閏1月10日付島津龍伯書状案(『島津家文書』3-1446号) |
天正20年 1592年 1月19日 |
結城秀康が北野社にて立願の連歌200韻を興行する。 |
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正20年 1592年 1月30日 |
豊臣秀次が北野社に参詣する。 |
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正20年 1592年 1月-日 |
観音寺詮舜・石川光元・早川長政が大津村水夫200人のうち35人を朝鮮出兵に従軍させることを決める。なお出征する水夫1人につき、妻子扶助分として2人扶持、本人に2人扶持を与え、また上クラスの水夫には10石を、中クラスの水夫には8石を、下クラスの水夫には6石を与えることを示す。35名の水夫は2月1日に聚楽第(山城国)へと向かうことを定める。 |
出典:天正20年1月日観音寺詮舜・石川光元・早川長政連署加子徴発状(「木村忠之家文書」) |
天正20年 1592年 2月1日 |
徳川家康が加藤正次に朱印状を発給する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第777「加藤正次」の項 |
天正20年 1592年 2月3日 |
山科言経が大仏殿にいる応其のもとを訪れる。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正20年 1592年 2月14日 |
結城秀康の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。 |
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正20年 1592年 2月-日 |
本願寺(京都六条)の釿始が執行される。 |
出典:『紫雲殿由縁記』 |
天正20年 1592年 3月8日 |
長宗我部元親が朝鮮攻めにつき浦戸(土佐国)を出航する。 |
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
天正20年 1592年 3月8日 |
徳川家康が山中元定に武蔵国橘樹郡矢口郷・稲毛郷内で200石を給付する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第583「山中元定」の項 |
天正20年 1592年 3月13日 |
豊臣秀吉が浅野幸長に名護屋城(肥前国)への在陣を命じる。 |
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』77号) |
天正20年 1592年 3月18日 |
豊臣秀吉の朝鮮国攻めにつき、結城秀康が京都より出陣する。 |
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正20年 1592年 3月21日 |
仙石秀久の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。 |
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正20年 1592年 3月26日 |
豊臣秀吉が朝鮮攻めのため名護屋(肥前国)に向けて京都を出立する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』、『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正20年 1592年 3月27日 |
豊臣秀吉が兵庫(摂津国)に到着。増田長盛の宿所に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 3月28日 |
豊臣秀吉が未明に兵庫(摂津国)を出立。明石(播磨国)で休息。加古川(播磨国)では糟屋武則が秀吉のため茶屋をしつらえ酒一献を進上する。姫路城(播磨国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 3月29日 |
豊臣秀吉が朝早くに姫路城(播磨国)を出立。飾磨津にて船に乗り、岡山城(備前国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月8日 |
豊臣秀吉が三原(備後国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月8日 |
結城秀康の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。 |
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正20年 1592年 4月11日 |
豊臣秀吉が広島(安芸国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月12日 |
五島純玄が朝鮮に向けて名護屋城(肥前国)を発す。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第186「清和源氏 義光流 武田支流 五島」「五島純玄」の項 |
天正20年 1592年 4月15日 |
豊臣秀吉が広島(安芸国)を出立する。草津(安芸国)にて船に乗り厳島神社に参詣する。高森(周防国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月16日 |
山科言経が大仏殿にいる応其のもとを訪れるが、応其は京都を出ており不在。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正20年 1592年 4月16日 |
豊臣秀吉がはなをり(周防国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月17日 |
豊臣秀吉が天神の講(周防国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月18日 |
豊臣秀吉が埴生(長門国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月19日 |
豊臣秀吉が埴生(長門国)を発ち、関門海峡を通過し、小倉城(豊前国)に宿泊する。 秀吉が島津義弘に朝鮮への渡海時は、紀伊国警固船・藤堂高虎・九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明・備前国警固船にも出陣を命じたので、彼等と相談し渡海するよう命じる。 |
出典:(天正20年)4月19日付豊臣秀吉朱印状(『島津家文書』1-386号)、『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月20日 |
豊臣秀吉が宗像(筑前国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |