天正20年 1592年 4月21日 |
豊臣秀吉が名島(筑前国)に宿泊する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月21日 |
佐竹義宣が軍勢3000を率い名護屋城(肥前国)に着陣する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項 |
天正20年 1592年 4月24日 |
豊臣秀吉が名島(筑前国)を発ち、昼前に深江に宿泊する。深江にて4月12日に小西行長・宗義智が朝鮮の釜山に着岸し朝鮮軍を攻め、同地を落としたとの報を受ける。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 4月25日 |
豊臣秀吉が名護屋城(筑前国)に到着する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 5月5日 |
佐竹義宣が豊臣秀吉に謁し、帷子・羽織を賜る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項 |
天正20年 1592年 5月16日 |
仙石秀久の祈念のため某が北野社にて御百度詣りをする。 |
出典:『天正二十年日記書抜』同年月日条(『北野天満宮史料』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年) |
天正20年 1592年 6月5日 |
白光彦・李之詩率いる朝鮮軍が脇坂安治勢が守備する龍仁城を囲む。 |
出典:『脇坂家伝記』 |
天正20年 1592年 6月6日 |
卯刻(5-7時)、脇坂安治が龍仁城を囲む白光彦・李之詩率いる朝鮮軍を攻め、安治が勝利する。 |
出典:『脇坂家伝記』 |
天正20年 1592年 6月13日 |
久野重勝が朝鮮にて死去する。 |
出典:- |
天正20年 1592年 6月14日 |
夜、平壌城より高彦伯、柳璟令が大同江(平安川)に布陣する日本軍の宗義智の陣を夜襲する。小西行長、黒田長政が応戦し、日本軍が勝利する。 |
出典:『菅氏世譜』 |
天正20年 1592年 7月2日 |
平島(阿波国)にて足利義助が死去する。 |
出典:『阿州将裔記』「足利義冬より之系図」 |
天正20年 1592年 7月7日 |
脇坂安治が巨済島に向けて出航する。閑山島付近にて安治と李舜臣が戦い、李舜臣が勝利する。脇坂勢は脇坂左兵衛、渡辺七右衛門等が戦死する。安治の出撃を知り、九鬼嘉隆、加藤嘉明も出撃するが、朝鮮水軍の兵船が多かったため、安骨浦に引き上げる。李舜臣は安骨浦まで追撃して嘉隆の船の帆柱を火矢等により打ち砕く。 |
出典:『脇坂家伝記』 |
天正20年 1592年 7月14日 |
豊臣秀吉の母・なか(大政所)重病のため、清水寺、愛宕山、鞍馬寺、石清水八幡宮、北野社、伊勢内宮、伊勢下宮、多賀社、春日社、稲荷社、住吉社、祇園社、下鴨神社、上賀茂神社、金剛峯寺に平癒祈祷を命じるとともに、回復した際には奉加として1000貫を寄附することを伝える。 |
出典:天正20年7月14日付豊臣秀次朱印状(和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』2008年10月) |
天正20年 1592年 7月16日 |
安定館にてと祖承訓・史儒率いる明軍と小西行長が戦う。 |
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」 |
天正20年 1592年 7月18日 |
島津義久の命により町田久倍が島津歳久が追討に向かう。久倍に追いつかれた歳久は自害する。 |
出典:- |
天正20年 1592年 7月22日 |
豊臣秀吉が母・大政所の病を聞き、名護屋城(筑前国)を発つ。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 8月2日 |
豊臣秀吉が大坂城(摂津国)に到着する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 8月9日 |
松平忠輝が生まれる。 |
出典:- |
天正20年 1592年 8月10日 |
安定館にてと祖承訓・史儒率いる明軍と小西行長・黒田長政・立花宗茂が戦い、日本軍が勝利する。史儒が戦死する。 |
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」 |
天正20年 1592年 8月11日 |
豊臣秀吉が伏見(山城国)の地に赴く。同地に城普請を命じる。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 9月9日 |
豊臣秀勝が朝鮮にて死去する。 |
出典:- |
天正20年 1592年 9月22日 |
富田信種が佐野房綱の養子となり、佐野家を相続する。 |
出典:- |
天正20年 1592年 9月23日 |
豊臣秀吉が本願寺顕如のもとに茶湯に赴く。その後、大仏殿に赴き、さらに大坂城(摂津国)へ向かう。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正20年 1592年 10月1日 |
豊臣秀吉が名護屋城(肥前国)に到着する。 |
出典:『太閤さま軍記のうち』 |
天正20年 1592年 10月11日 |
口羽春良が開寧(朝鮮国)にて死去する。 |
出典:- |
天正20年 1592年 10月17日 |
山科言経が大仏殿にいる応其のもとを訪れる。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正20年 1592年 10月18日 |
坂本貞次が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第131「坂本貞次」の項 |
天正20年 1592年 10月27日 |
李如松率いる明軍50000が山海関を出立する。 |
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」 |
天正20年 1592年 11月3日 |
山科言経が大仏殿にいる応其のもとを訪れる。 |
出典:『言経卿記』同年月日条 |
天正20年 1592年 11月18日 |
本願寺(京都六条)にて移徙供養が執行される。 |
出典:『紫雲殿由縁記』 |