人 物 史

有馬晴信 ありま はるのぶ
生 没 年永禄10年(1567)-慶長17年(1612)5/7
出 身-幼 名-
別 称十郎、正純、鎮純、久賢、鎮貴
法 名ドン・プロタジオ
戒 名-
有馬義貞安富徳円の妹
兄 弟 姉 妹有馬義純、マセンシア、波多親、有馬晴信、千々石純友、カタリーナ、有馬掃部、有馬純実、有馬純実、有馬純忠
配 偶 者ルチア、ジュスタ(中山親綱の娘)、犬上(山田純規の娘)
-
官 位修理大夫
役 職-
城 郭原城(肥前国)、日野江城(肥前国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ有馬晴信の関連文化財
有馬晴信 年表
永禄10年 1567年 -月-日 1歳
有馬晴信が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 4歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 7歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正17年 1589年 11月20日 22歳
小西行長加藤清正有馬晴信、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1

天正17年 1589年 11月21日 22歳
小西行長加藤清正有馬晴信、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1

天正17年 1589年 11月22日 22歳
小西行長加藤清正有馬晴信、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1

天正17年 1589年 11月23日 22歳
小西行長加藤清正有馬晴信、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1

天正17年 1589年 11月24日 22歳
小西行長加藤清正有馬晴信、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻める。
出典:『清正記』巻1

天正17年 1589年 11月25日 22歳
辰刻(7-9時)、小西行長加藤清正有馬晴信、後藤、大村、平戸が天草種元の籠る本渡城(肥後国)を攻め、同城を落とす。種元は自害する。
出典:『清正記』巻1

天正20年 1592年 1月5日 26歳
豊臣秀吉加藤清正小西行長を召し出し、朝鮮出兵につき、清正に鍋島直茂・相良頼房を付し、行長に宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄を付すことを伝える。また、清正に朝鮮国内での制札、軍書、南妙法蓮華経の旗を、行長に朝鮮国内での制札、軍書、馬(銘 大黒)を与える。
出典:『清正記』巻2

天正20年 1592年 7月16日 26歳
安定館にてと祖承訓・史儒率いる明軍と小西行長が戦う。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

天正20年 1592年 8月10日 26歳
安定館にてと祖承訓・史儒率いる明軍と小西行長黒田長政立花宗茂が戦い、日本軍が勝利する。史儒が戦死する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

天正20年 1592年 10月27日 26歳
李如松率いる明軍50000が山海関を出立する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄1年 1592年 12月8日 26歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄1年 1592年 12月25日 26歳
李如松率いる明軍50000が鴨緑江を渡る。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月3日 27歳
李如松率いる明軍50000が安定館に到着する。小西行長大友義統黒田長政小早川秀包に加勢を依頼する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月6日 27歳
李如松率いる明軍43000と朝鮮軍8000が、小西行長宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄が守る平壌を攻める。行長が明軍を退ける。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月8日 27歳
夜、小西行長が平壌城より撤退する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月9日 27歳
8日夜に平壌城を撤退し明軍の追撃を受けていた小西行長が黒田家家臣・小河信章の守る龍泉寺に入城する。信章は行長を追う明を退ける。黒田長政が行長を白川城に迎える。行長は撤退を勧めるが、長政および小早川秀包は応戦を主張し、行長には撤退を勧める。龍泉城の信章は栗山利安の陣取る江陰に入り、秀包は牛峯に陣取る。
明軍は江陰を攻め、黒田勢の利安・黒田直之・母里友信・後藤基次・衣笠景延が応戦する。黒田勢は長政本陣の白川城まで引き上げる。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月10日 27歳
黒田長政が籠る白川城を明軍が攻める。長政が明軍を退ける。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月16日 27歳
李如松率いる明軍が開城府に入城する。
出典:『黒田家譜』巻7「長政記」

文禄2年 1593年 5月20日 27歳
豊臣秀吉が牧使城の包囲を命じる。包囲の衆は、鍋島直茂(軍勢7642)、黒田長政(軍勢5082)、加藤清正・相良頼房(軍勢6790)、毛利吉成(軍勢1671)、島津義弘(軍勢2128)、高橋元種(軍勢741)、秋月種長(軍勢388)、島津忠豊(476)、伊東祐兵(706)の総勢30980と小西行長宗義智・松浦鎮信・大村喜前・五島純玄・有馬晴信(軍勢7415)、長谷川秀一(軍勢2470)、細川忠興(軍勢2296)、昌原十一人衆(軍勢4400)、浅野長政長継父子(軍勢4000)、織田秀信(軍勢4018)、伊達政宗(軍勢1258)、黒田孝高(軍勢325)の総勢52000。
出典:文禄3年5月20日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』955号)

慶長1年 1596年 10月27日 30歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 2月21日 31歳
豊臣秀吉が朝鮮攻めの陣立を定める。
1・2番 加藤清正(軍勢10000)、小西行長(軍勢7000)、宗義智(軍勢1000)、松浦鎮信(軍勢3000)、有馬晴信(軍勢2000)、大村喜前(軍勢1000)、五島純玄(軍勢700)
3番 黒田長政(軍勢5000)、毛利吉成・勝永(軍勢2000)、島津豊久(軍勢800)、高橋元種(軍勢600)、秋月種長(軍勢300)、伊東祐兵(軍勢500)、相良長毎(軍勢800)
4番 鍋島直茂勝茂(軍勢12000)
5番 島津義弘(軍勢10000)
6番 長宗我部元親(軍勢3000)、藤堂高虎(軍勢2800)、池田秀氏(軍勢2800)、加藤嘉明(軍勢2400)、来島通総(軍勢600)、中川秀成(軍勢1500)、菅達長(軍勢200)
7番 蜂須賀家政(軍勢7200)、生駒親正(軍勢2700)、脇坂安治(軍勢1200)
8番 毛利秀元(軍勢30000)、宇喜多秀家(軍勢10000)
釜山かい城在番 小早川秀秋(軍勢10000)
あんこうらいの城在番 立花宗茂(軍勢5000)
加徳城在番 高橋直次(軍勢500)、筑紫広門(軍勢500)
竹島城在番 毛利秀包(軍勢1000)
西生浦城在番 浅野幸長(軍勢3000)
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』271号)

慶長16年 1611年 8月23日 45歳
有馬晴信・直純父子が駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れ、晴信が巻物20を、直純が銀子50枚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月23日 46歳
本多正純の与力・岡本大八が、有馬晴信に先年の黒船討ち取りの功により肥前国三郡の返付があるとして偽造した朱印状を渡すとともに、幕府老中への謝礼として白銀600枚を納めるようにと指示し、その白銀を横領したことについて、晴信からの疑義があり裁判が行われ、大八は無罪を主張するも、晴信が証拠となる文書を所持していたことから、大八の敗訴となり、大八も白状する。駿府町奉行の彦坂光正が大八を鞭打ちのうえ禁固する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月18日 46歳
禁獄中の岡本大八が有馬晴信について、長谷川藤広を殺害せんと企んでいると申告する。これにより、大八を牢より出し、大久保長安邸に移し、晴信の居る前で大八に晴信の企てについて述べさせる。晴信は閉口してしまい回答ができなかったため、晴信の身柄を拘束する。大八は再度牢に入れる。これにつき、晴信の所領は子・直純に与え、直純には国の仕置きのため帰国を許す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月21日 46歳
徳川秀忠が加護鼻にて竹腰正信をして鉄砲を放たせる。
岡本大八を牢より出し、府内(駿河国)にて引き回しのうえ、安部川原にて火炙りの刑に処す。徳川家康板倉勝重を召し、キリスト教を禁教とし、京都における南蛮寺の破却を命じる。また、長谷川藤広に暇を与え長崎(肥前国)に赴かせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月22日 46歳
駿府城(駿河国)にて徳川秀忠山名禅高と将棋を指す。
有馬晴信を甲斐国へ配流とする。大久保長安の監督下に置く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月7日 46歳
長崎奉行・長谷川藤広の殺害計画があったとして有馬晴信が甲斐国にて自害する。
出典:『駿府記』同年月日条

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