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事項 :   
出典 :   


慶長2年 1597年 9月8日
前田玄以が参内する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長2年 1597年 9月8日
加藤清正太田一吉がチンセンに到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月9日
三宝院義演が『醍醐雑要』を書写し終える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 9月10日
豊臣家の奉行が三宝院義演のもとにやってきて柴公事を徴発される。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 9月12日
朝鮮からもたらされた耳鼻の桶15桶が方廣寺の塚(耳塚)に埋納される。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 9月13日
足利義昭の香典として、細川忠興より堵物20結、細川幽斎より堵物10結、松井康之より銭3貫文、小笠原より堵物1結が西笑承兌のもとに届く。使者は細川忠隆
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月14日
加藤清正太田一吉がチンセンを発ち、チンナンに到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月15日
教如が長楽寺誓安(越後国頚城郡中嶋)に顕如御影を下付する。
出典:顕如御影裏書(『上越市史 資料編3 古代・中世』1087号)

慶長2年 1597年 9月15日
宇喜多秀家脇坂安治藤堂高虎九鬼嘉隆、来島通総、加藤嘉明、菅達長が明軍が籠る泗門城(朝鮮国)を攻める。
出典:『脇坂家伝記

慶長2年 1597年 9月15日
加藤清正太田一吉が全羅道の府中ホランに到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月16日
西笑承兌が伏見(山城国)に赴く。木屋の普請場にて西笑承兌豊臣秀吉に対面する。
朝鮮より注進があり。加藤清正が捕らえ日本に送還された朝鮮の正官が秀吉の前に召された際、承兌が筆談し明国、朝鮮の軍勢について問う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月16日
加藤清正太田一吉がホキンに到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月17日
西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。家康邸にて飯あり。細川幽斎に会う。
善光寺如来堂前にて朝鮮出兵戦死者の「慈救」として大施食を執行するようにとの豊臣秀吉よりの命が出る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月17日
西笑承兌細川幽斎が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月17日
善光寺如来堂前にて朝鮮出兵戦死者の「慈救」として大施食の執行を命じる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月17日
豊臣秀吉が善光寺如来堂(大仏殿)前にて朝鮮出兵戦死者の「慈救」ためとして大施食の執行を命じる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月17日
加藤清正太田一吉がアロウに到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月18日
西笑承兌善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行の件につき前田玄以のもとを訪れる。玄以より鳥目万疋が支出される旨が伝えられる。また、施食の棚物、供台、盛物の箱について応其に作成が命じられ、それを大仏にいる応其に伝えるべく能智が遣わされる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月18日
加藤清正太田一吉がチンミンに到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月19日
善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行の件につき、南禅寺(山城国)、天龍寺(山城国)、建仁寺(山城国)、東福寺(山城国)に僧衆を出仕させるよう西笑承兌が触状を出す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月19日
加藤清正太田一吉が慶尚道の古都に到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月20日
西笑承兌が伏見(山城国)に赴く。木屋の普請場にて豊臣秀吉に対面し、その後、殿中にて秀吉の帰りを待つ。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月21日
田嶋宗歇が西笑承兌のもとを訪れる。宗歇は承兌に茶筅(甚丞の作)、茶杓(界三大夫の作)、火筋1ヶを贈る。
脇坂作十郎が承兌のもとを訪れる。作十郎は承兌に薄皮饅入りの折箱1を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月22日
加藤清正太田一吉が慶尚道の古都の大仏殿を焼き払う。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月23日
加藤清正太田一吉が慶尚道の古都を発ち、ユキヤウに到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月23日
善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食の執行につき、大施食料100貫文を渡すと前田玄以より一箒斎をもって伝えられる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月24日
早朝、大谷吉継邸に豊臣秀吉、象使、徳川家康富田一白織田有楽斎西笑承兌が訪れる。吉継は病のため、吉継の子・吉治が出迎える。吉継は数寄屋にて茶を振る舞う。ついで広間にて太刀、金鞍皆具、腰物、火緞子小袖20、銀子100枚、綿子100把を吉継が秀吉に進上する。午刻(11-13時)、御膳。本印坊と利元、秀吉と宗具の碁が行われる。晩におよび小漬の後、皆帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月24日
加藤清正太田一吉がクノイに到着する。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長2年 1597年 9月25日
26日に開催予定であった善光寺如来堂前での朝鮮出兵戦死者を弔う大施食執行が延期となる。延期理由は、朝鮮出兵戦死者の塚(「大明朝鮮闘死群霊所」)が小さいため、拡大してから施食をしてはとの意見があったためであるが、このことについて応其西笑承兌より問われた秀吉は、先に施食を行った後、塚を広げるようにとの指示する。よって、応其と承兌は28日に大施食を執行すると決し前田玄以に伝えるが、玄以は忙しく返答がなし。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月25日
加藤清正太田一吉がクノイに逗留する。
出典:『朝鮮記 乾』

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