人 物 史

西笑承兌 さいしょうじょうたい
生 没 年天文17年(1548)-慶長12年(1607)12/27
出 身山城国伏見
俗 姓(氏)-俗 名-
別 称月甫、南陽
院 号 坊 号-
--
兄 弟 姉 妹-
所 属 寺 社相国寺鹿苑院
僧 位 僧 官-
諡 号-
師 匠-
参 考 文 献西笑承兌に関する参考文献
関 連 デ ー タ西笑承兌の関連文化財
西笑承兌 年表
天文17年 1548年 -月-日 1歳
西笑承兌が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 8歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 11歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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元亀1年 1570年 4月23日 23歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
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天正1年 1573年 7月28日 26歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正17年 1589年 1月4日 42歳
西笑承兌は京都の前田玄以邸を訪れ礼をする。あわせて玄以家臣の松田勝行、尾池清左衛門にも礼をする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 2月1日 42歳
島津久保が西笑承兌のもとを訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 3月17日 42歳
西笑承兌徳川家康のもとに礼に赴く。大久保忠隣にも礼に赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 9月19日 42歳
西笑承兌前田玄以のもとを訪れ、双樽、両種(昆布50本、索麺10把)を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 10月1日 42歳
浅野長政の所司代就任を祝い西笑承兌が礼に訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 10月21日 42歳
検地奉行・御牧景則が西笑承兌訪れる。伏見から三栖の所領について堺を打つ。検地のことについて景則に尋ねる。景則に礼儀を贈るも断られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 11月2日 42歳
検地奉行・御牧景則が西笑承兌のもとを訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 11月3日 42歳
正法庵妙慶の屋敷の諸役を検地奉行・御牧景則に免除してもらう。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 11月4日 42歳
西笑承兌が清泉寺に赴き、検地奉行・御牧景則に礼をする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 11月5日 42歳
西笑承兌が芹川に赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 11月7日 42歳
西笑承兌が6日に蜂屋頼隆邸に移った前田玄以のもとへ赴き移転の礼をし双樽1折を贈る。松田勝行に昆布50本を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正19年 1591年 8月6日 44歳
豊臣秀吉東福寺に赴く。
入唐のことについて西笑承兌、惟杏、有節瑞保に供をするように伝える。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 45歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄3年 1594年 8月21日 47歳
豊臣秀吉が伏見(山城国)に大光明寺を建立し、西笑承兌を住持とする。当寺は秀吉の命にて諸大名の勧進によって賄われる。勧進奉行は山中山城守、有馬刑部法印、織田有楽斎
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

慶長1年 1596年 10月27日 49歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 3月12日 50歳
石田三成西笑承兌に小袖1、袷1、両樽、蕨10把を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月13日条

慶長2年 1597年 3月13日 50歳
西笑承兌金森長近寄進の相国寺南門を見物する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 3月15日 50歳
石田三成西笑承兌に袷を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 3月22日 50歳
宇喜多秀家西笑承兌に児嶋大樽2ヶを贈る。
豊臣秀吉が承兌のもとにやってきて雑談する。秀吉は承兌に木綿2端を下付する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 3月24日 50歳
午刻(11-13時)、西笑承兌徳川家康のもとに赴く。一欧軒に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 3月25日 50歳
西笑承兌長束正家のもとに赴く。正家の所で石田三成増田長盛と会う。
ついで、殿中に赴き宇治(山城国)より聞茶11種あり。御座敷にて徳川家康前田利家金森長近富田一白、御伽衆12、13人が参加する茶湯が行われる。家康より海雲1桶が贈られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 3月25日 50歳
伏見城(山城国)の御座敷にて徳川家康前田利家金森長近富田一白西笑承兌、御伽衆12、13人が参加する茶湯が行われる。家康が承兌に海雲1桶を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 3月29日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)の豊臣秀吉のもとを訪れる。ともに飯を食べ、その後、秀吉が石垣普請を見分するのに付き添う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月2日 50歳
西笑承兌が青木重直のところで行われた茶湯に参会する。宗凡と会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月3日 50歳
西笑承兌徳川家康のもとに赴く。昼食の振舞がある。承兌は織田有楽斎に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月4日 50歳
安威了佐の私邸で西笑承兌織田有楽斎山名禅高が饗応を受ける。禅高が了佐に所望した藤原定家色紙歌を承兌等が見物する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月6日 50歳
御牧景則より西笑承兌に書状が届く。7日に徳川家康を饗応するので相伴するようにとの誘いがあり伏見に赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月7日 50歳
徳川家康西笑承兌が御牧景則の邸に赴く。斎をともにする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月10日 50歳
西笑承兌前田玄以のもとを訪れ、等持院大工の起用を懇望し了解してもらう。
徳川家康のもとに赴き、舞を聴き、昼食をとった後、対談し帰る。
夜、石田正澄が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月11日 50歳
昭都寺が西笑承兌のもとを訪れる。田楽、酒を出す。
稲葉重通より承兌のもとに書状が届く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月13日 50歳
西笑承兌が宇治(山城国)を徘徊する。上林所にて極上茶を飲む。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月14日 50歳
稲葉重通より西笑承兌のもとに15日に来訪する旨を伝える使者がやってくる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月15日 50歳
西笑承兌が秉払化儀を見るため東福寺に赴く。
稲葉重通が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月16日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴き東西の御殿を見物する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月18日 50歳
大工4人が西笑承兌のもとにやってくる。書院の作事を命じる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月19日 50歳
西笑承兌が伏見(山城国)に赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月20日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。徳川家康前田利家に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月22日 50歳
増田長盛より西笑承兌のもとに使者があり、承兌は長盛のもとへ赴く。堀尾吉晴藤堂高虎と会う。芝霊石文字、仙鑑達磨讃を見る。飯と茶がある。
西笑承兌徳川家康のもとに赴く。織田有楽斎、戸田勝成、津田信成に会い夕食をともにする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月24日 50歳
西笑承兌が象使いが泊っている薬院へ赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月25日 50歳
織田有楽斎西笑承兌のもとを訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月26日 50歳
西笑承兌が梅甫と会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月27日 50歳
長得にて斎あり。西笑承兌が参加する。承兌が梅甫に宇治晒を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月28日 50歳
慈照寺にて斎あり。西笑承兌が参加する。承兌は、斎の後、伏見城(山城国)に赴き、豊臣秀吉に供奉し普請を見物する。午刻(11-13時)、殿中にて昼食をいただく。また、夕食もいただく。夜に帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月29日 50歳
西笑承兌が山口宗永の邸に赴く。清水願と会う。照高院の岩坊が来る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月4日 50歳
石田三成西笑承兌に絹帷1、晒布帷1を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月9日 50歳
光源院の仏事料について、小早川隆景が銀子20枚を、毛利輝元が銀子20枚を西笑承兌に贈る。足利昌山に納める隆景よりの銀子20枚のうち、5枚を等持院に送り、5枚を本院に送る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月17日 50歳
伏見城(山城国)において豊臣秀吉・秀頼父子に対する年頭・移徙の礼が行われたため、縮羅1端、杉原10帖を秀吉に、縮羅10帖を秀頼に礼として進上する。自身は正月に自身で礼を済ませているので参列せず。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月22日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。午刻(11-13時)前に御移徙の祝いとして生絹帷1、宇治晒1を進上する。
徳川家康のもとに赴く。家康は有馬豊氏の饗応を受けることになっていたので同道する。27日に家康が来寺するよう約束をする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月26日 50歳
27日の徳川家康相国寺訪問が延期になる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月28日 50歳
徳川家康浅野長政有馬豊氏山名禅高相国寺を訪れる。家康より米10石が、長政より生絹帷2、晒帷3が、有馬豊氏より生絹帷1、晒1が、山名禅高より双樽、海苔が贈られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月29日 50歳
豊臣秀吉が大仏千僧会を見物する。天台宗の導師は照高院道澄。天台宗、真言宗、禅宗(妙心寺派)、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧2400名が参加する。秀吉に西笑承兌が供奉する
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月1日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に出仕する。承兌のもとに徳川家康前田利家織田常真が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月4日 50歳
バタン国より使者が豊臣秀吉のもとに到来し、エンブ鳥1匹、インコ1双、水瓶却老薬1瓶、龍脳1瓶、華席1枚、帯2筋、沈香10斤、丁香20斤、胡椒200斤、スソウ1000斤が贈られる。バタン国封海王より書札あり。使者は船頭の沈徳。秀吉がバタン国よりの献納物のうち胡椒2斤、丁香10両を西笑承兌に下付する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月5日 50歳
バタン国への返書の草案を西笑承兌が作成し、豊臣秀吉に見せる。徳川家康が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月8日 50歳
バタン国への返書に用いる料紙が西笑承兌のもとに到来する。増田長盛のもとに赴き相談する。長盛より返書に用いる包紙の下絵を用意するように言われる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月9日 50歳
豊臣秀吉が、西笑承兌作成したバタン国への返書を確認のうえ、承兌に金印を捺させ長束正家に渡す。
相国寺鹿苑院の西笑承兌足利昌山に帷1を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月10日 50歳
西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。『群書治要』第8巻を借用する。家康の前で同書を読む。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月12日 50歳
照高院道澄西笑承兌に中国佐世扇に讃3首の清書を依頼され清書する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月13日 50歳
伏見城(山城国)の本丸で豊臣秀吉西笑承兌に対面する。晩飯をともにする。
前田利家より索麺1籠、杉原3束が贈られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月21日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。前田利家織田有楽斎に会う。蒲生郷成・弥介親子より礼がある。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月22日 50歳
西笑承兌が味岡市右衛門に双樽、両種を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月23日 50歳
堀尾吉晴が自身の木屋にて催した茶会に豊臣秀吉を茶会に招く。西笑承兌に粥を振る舞う、
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月27日 50歳
地震により伏見の西笑承兌の寺屋敷が壊れる。
上杉景勝が承兌に諸白樽2ヶ、松茸を音信として贈る。毛利輝元室が承兌に双樽・両種を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月29日 50歳
西笑承兌が伏見(山城国)の増田長盛のもとを訪れる。ついで長束正家のもとを訪れ、27日の地震で正家の木屋が倒壊したことについてお見舞いをする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月1日 50歳
8月28日に死亡した足利義昭の遺体が納められた輿が上洛する。西笑承兌が等持院山門で迎える。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月2日 50歳
8月28日に死亡した足利義昭の遺体が納められた輿の前で光明真言21返、大悲呪、回向を読む。
承兌が前田玄以のもとを訪れ晩飯をともにする。西洞院時慶、里村紹巴に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月4日 50歳
西笑承兌足利義昭の葬儀を等持院で執行することを豊臣秀吉に提案し許される。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月8日 50歳
足利義昭の葬儀を等持院にて執行する。西笑承兌が葬儀に参列する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月13日 50歳
足利義昭の香典として、細川忠興より堵物20結、細川幽斎より堵物10結、松井康之より銭3貫文、小笠原より堵物1結が西笑承兌のもとに届く。使者は細川忠隆
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月16日 50歳
西笑承兌が伏見(山城国)に赴く。木屋の普請場にて西笑承兌豊臣秀吉に対面する。
朝鮮より注進があり。加藤清正が捕らえ日本に送還された朝鮮の正官が秀吉の前に召された際、承兌が筆談し明国、朝鮮の軍勢について問う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月17日 50歳
西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。家康邸にて飯あり。細川幽斎に会う。
善光寺如来堂前にて朝鮮出兵戦死者の「慈救」として大施食を執行するようにとの豊臣秀吉よりの命が出る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月18日 50歳
西笑承兌善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行の件につき前田玄以のもとを訪れる。玄以より鳥目万疋が支出される旨が伝えられる。また、施食の棚物、供台、盛物の箱について応其に作成が命じられ、それを大仏にいる応其に伝えるべく能智が遣わされる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月19日 50歳
善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行の件につき、南禅寺(山城国)、天龍寺(山城国)、建仁寺(山城国)、東福寺(山城国)に僧衆を出仕させるよう西笑承兌が触状を出す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月20日 50歳
西笑承兌が伏見(山城国)に赴く。木屋の普請場にて豊臣秀吉に対面し、その後、殿中にて秀吉の帰りを待つ。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月21日 50歳
田嶋宗歇が西笑承兌のもとを訪れる。宗歇は承兌に茶筅(甚丞の作)、茶杓(界三大夫の作)、火筋1ヶを贈る。
脇坂作十郎が承兌のもとを訪れる。作十郎は承兌に薄皮饅入りの折箱1を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月23日 50歳
善光寺如来堂前で開催予定の朝鮮出兵戦死者を弔う大施食の執行につき、大施食料100貫文を渡すと前田玄以より一箒斎をもって伝えられる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月24日 50歳
早朝、大谷吉継邸に豊臣秀吉、象使、徳川家康富田一白織田有楽斎西笑承兌が訪れる。吉継は病のため、吉継の子・吉治が出迎える。吉継は数寄屋にて茶を振る舞う。ついで広間にて太刀、金鞍皆具、腰物、火緞子小袖20、銀子100枚、綿子100把を吉継が秀吉に進上する。午刻(11-13時)、御膳。本印坊と利元、秀吉と宗具の碁が行われる。晩におよび小漬の後、皆帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月25日 50歳
26日に開催予定であった善光寺如来堂前での朝鮮出兵戦死者を弔う大施食執行が延期となる。延期理由は、朝鮮出兵戦死者の塚(「大明朝鮮闘死群霊所」)が小さいため、拡大してから施食をしてはとの意見があったためであるが、このことについて応其西笑承兌より問われた秀吉は、先に施食を行った後、塚を広げるようにとの指示する。よって、応其と承兌は28日に大施食を執行すると決し前田玄以に伝えるが、玄以は忙しく返答がなし。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月26日 50歳
相国寺光源院にて八月月次の連句会が行われる。西笑承兌が参加する。午刻(11-13時)、善哉餅を食す。
善光寺如来堂前での朝鮮出兵戦死者を弔う大施食の件につき、前田玄以よりの返事なし。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月27日 50歳
善光寺如来堂前での朝鮮出兵戦死者を弔う大施食の件につき、早朝、前田玄以西笑承兌に28日の執行許可を伝える。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月28日 50歳
足利義昭の御月忌始め。
西笑承兌善光寺如来堂前に赴き、卒塔婆を書く。同所にて朝鮮出兵戦死者を弔う大施食を執行する。応其に堵物2結を贈る。
大施食終了後、祇園に赴き、林中にて飯、酒を摂る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月1日 50歳
西笑承兌が伏見(山城国)に赴く。晩、徳川家康のもとに赴く。金森長近浅野長政織田有楽斎山名禅高に会う。城昌茂に『太平御覧』25冊を渡す。昌茂より『史記抄』18冊を借りる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月3日 50歳
西笑承兌石田正澄を訪れるも病により会えず。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月4日 50歳
豊臣秀吉のもとに朝鮮唐島にて日本軍が奪取した朝鮮の船にあった諸道具が送られてくる。同船内にあった書物について、秀吉は西笑承兌のもとに福原長堯を遣わし、承兌を呼び寄せ、目の前にて読ませる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月5日 50歳
浅野長政西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。承兌と長政は碁を指し、飯をともにする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月6日 50歳
西笑承兌が京の御殿に赴き豊臣秀吉に対面する。徳川家康前田利家に会う。
石田正澄が承兌に饅頭折箱を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月8日 50歳
西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。承兌は山科言経、冷泉、富田一白に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月10日 50歳
西笑承兌が伏見稲荷に赴く。豊臣秀吉が上洛するというので同地にて待つ。しかし、秀吉は来ず。織田有楽斎と会い、東福寺に赴き紅葉を見物する。夜、伏見に赴き、深夜に帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月11日 50歳
西笑承兌が伏見(山城国)に赴く。上洛中の徳川家康を五条橋にて見る。
城昌茂より摘綿100目が贈られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月13日 50歳
午後、西笑承兌徳川家康のもとを訪れるが、家康は咳がひどく会えず。
織田有楽斎が承兌のもとを訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月14日 50歳
西笑承兌織田有楽斎のもとを訪れ、帰雲文字、大恵御影を見物する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月17日 50歳
西笑承兌足利義昭の四十九日法要を執行する。槙島昭光、一色中務、一色入斎、小林、真下加右衛門が参列する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月18日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。午後、船入御殿に入り、学問所にて飯をとる。晩は松丸にて飯あり。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月21日 50歳
午刻(11-13時)、西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。家康とともに有馬豊氏邸での口切の茶会に参加する。山名禅高も参加する。茶会は本膳1汁2菜、引物。茶は上極で薄茶。
帰る途中、柘植長定を訪れる。また、22日に豊臣秀吉が訪問予定の前田利家邸を見舞いのため訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月22日 50歳
西笑承兌前田利家邸を訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月23日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。前田玄以より使者があり、玄以邸にて斎をともにする。宗無と会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月24日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)内の学問所の襖障子に下書きをする。増田長盛に仕える老女が承兌に懺法を所望する。承兌は承諾する。銀子10両が贈られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月26日 50歳
西笑承兌伊達政宗のもとを訪れる。政宗は承兌に茶を点てる。この日は、豊臣秀吉が政宗邸を訪問する日であったため、茶の後、承兌は秀吉、淀殿豊臣秀頼への献上物を見物する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月28日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。27日に体調を崩した豊臣秀吉の容態を問う。伏見城中にて徳川家康前田利家に会う。晩、家康邸に赴く。京極高次に会う。飯あり。そのついで上極の茶両種を喫す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月29日 50歳
西笑承兌石田正澄のもとを訪れる。飯あり。その後、論語について講じる。晩に正澄が承兌に大樽1を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月1日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。錦帳の中にいる豊臣秀吉の顔色をうかがう。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月2日 50歳
石田正澄西笑承兌のもとを訪れる。昼食をともにする。酒1樽を贈る。
照高院道澄が承兌のもとを訪れ、杉原2束、堵物1結を承兌に贈る。
夜、正澄に論語を講じる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月3日 50歳
午刻(11-13時)、直江兼続西笑承兌のもとを訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月4日 50歳
晩、西笑承兌石田正澄のもとを訪れ、『論語』郷党篇を講説する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月5日 50歳
より西笑承兌のもとに肩衝9個が来る。そのうちの小肩衝を金子10枚にて購入する。また、青木一矩に贈る肩衝を金子10枚で購入する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月6日 50歳
西笑承兌照高院道澄のもとを訪れる。入麺・吸物あり。建茶を喫す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月12日 50歳
西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。承兌が家康に『太平御覧』欠本25冊分を書写して贈る。承兌に夕飯を出す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月13日 50歳
徳川家康西笑承兌京極高次の茶会に参加する。高次が豊臣秀吉より拝領した足利義昭所持の肩衝を見物する。茶の後、書院にて饂飩、飯あり。
伏見城(山城国)に赴く。夕方、秀吉が文梨小壺を家康に、富士茄子壺を前田利家に、寺西肩衝を織田有楽斎に贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月16日 50歳
午刻(11-13時)、西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月17日 50歳
伏見城(山城国)内にて豊臣秀吉が、前田利家織田有楽斎西笑承兌とともに閑談する。秀吉が金子70枚で針屋源十郎から購入した星肩衝、で購入した小肩衝、金森可重より進上のシリブクラの小壺、虚堂墨蹟(の若狭屋宗加→大友宗麟蒲生氏郷→秀吉)を見せる。虚堂墨蹟は承兌に賜う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月21日 50歳
伏見城(山城国)内にて前田利家西笑承兌とともに閑談する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月26日 50歳
昨庵、紺屋小右衛門が西笑承兌のもとを訪れる。
承兌が預かっていた脇坂宗喜の金刀を孫の脇坂孫十郎が受け取りに訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月27日 50歳
金森長近西笑承兌に勝栗5袋を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月28日 50歳
石田正澄邸にて正澄が西笑承兌と斎をともにする。承兌が正澄に『論語』を講じる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月29日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。石田正澄とともに同道して帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月30日 50歳
増田長盛西笑承兌のもとを訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月1日 50歳
上杉景勝の使者が西笑承兌のもとに到着する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月3日 50歳
伏見城(山城国)にて前田利家西笑承兌織田有楽斎と会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月6日 50歳
薩摩国にて破損した南蛮船の船中にあった諸道具を豊臣秀吉が諸氏に与える。西笑承兌に如油壺1個、青地徳利1個、茶碗5個、唐鍋2個、唐櫛5個、唐扇2本、線香3束(1束5把)、唐墨2挺が与えられる。
出典:『鹿苑日録』同年月7日条

慶長2年 1597年 12月11日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴き織田有楽斎を待つ。学問所、船入御殿に赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月7日条

慶長2年 1597年 12月13日 50歳
毛利輝元西笑承兌に唐茶、綾小袖、鉄色小袖、樽、両種、畳面30を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月15日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。前田利家に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月16日 50歳
御番所にて石田三成増田長盛前田玄以長束正家西笑承兌を呼ぶ。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月19日 50歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。承兌が織田常真と囲碁をさす。
夜、豊臣秀吉に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月20日 50歳
西笑承兌前田玄以のもとを訪れる。玄以の点前にて極上茶を喫す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月22日 50歳
毛利輝元西笑承兌に小袖2、畳面30帖、樽3、肴両種を贈る。
安国寺恵瓊が承兌に書状、銀子1枚を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日・23日条

慶長2年 1597年 12月23日 50歳
前田利家西笑承兌に小袖2を贈る。
直江兼続が承兌に綿子10把を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月24日 50歳
西笑承兌毛利輝元のもとを訪れる。折箱1を贈る。飯と茶あり。
伊達政宗が承兌に袍を贈る。
夕方、承兌が石田正澄のもとに赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月26日 50歳
徳川家康西笑承兌に立紋鉄色の服を贈る。大久保忠隣より使者があり会う。
宇喜多秀家の妻・豪姫より書状あり。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長6年 1601年 12月12日 54歳
禁裏で和漢連句会が催される。参加者は、照高院道澄近衛信尹、日野資勝、中院通勝、西笑承兌、有節瑞保、梅印元冲、集雲守藤、以心崇伝
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長7年 1602年 1月10日 55歳
三宝院義演西笑承兌に杉原10帖、扇1本を贈る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 2月29日 55歳
西笑承兌、閑室元佶、文珠院勢誉が醍醐寺に花見に赴く。三宝院義演徳川家康の醍醐寺訪問予定を伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長9年 1604年 11月25日 57歳
26日朝に江戸(武蔵国)に下向する西笑承兌舟橋秀賢が暇乞いに訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 11月26日 57歳
日野亜相と西笑承兌が草津(近江国)にある多賀社不動院の宿に行く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長12年 1607年 12月27日 60歳
巳刻(9-11時)、西笑承兌が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月29日条

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