総年表 検索


和暦 :   西暦 :   月  日 
事項 :   
出典 :   


寛永9年 1632年 7月2日
駒井昌保が普請奉行となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌保」の項

寛永9年 1632年 7月6日
徳川家光の上洛につき、下曽根信由が宿割りを勤める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第149「下曽根信由」の項

寛永9年 1632年 7月17日
徳川家光が松平忠利三枝守英小尾光重を赦免する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同172「小尾光重」の項、同1152「三枝守英」の項

寛永9年 1632年 8月18日
南部利直が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

寛永9年 1632年 9月3日
浅野長晟が死去する。
出典:-

寛永9年 1632年 9月3日
九鬼守隆が死去する。
出典:-

寛永9年 1632年 10月4日
細川忠利小倉(豊前国)より熊本(肥後国)540000石に移封となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠利」の項

寛永9年 1632年 10月11日
小笠原忠真が明石(播磨国)より小倉(豊前国)150000石に、小笠原長次龍野(播磨国)より中津(豊前国)80000石に、小笠原忠知が杵築(豊後国)40000石に移封となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」、同巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項、同巻第190「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠知」

寛永9年 1632年 10月20日
徳川家光が徳川忠長の所領を没収する。忠長の身柄は安藤重長が預かる。
出典:-

寛永9年 1632年 10月28日
細川忠利小倉(豊前国)より熊本(肥後国)に移封となるにおよび細川三斎八代城(肥後国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」の項

寛永9年 1632年 11月2日
岡部長盛が死去する。
出典:-

寛永9年 1632年 11月16日
中川久盛愛宕山に青銅の鳥居を寄進する。
出典:愛宕神社鳥居銘文

寛永9年 1632年 11月18日
徳川家光が松平信綱を宿老格とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永9年 1632年 -月-日
能勢頼之が江戸城(武蔵国)本丸勤めとなる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第274「能勢頼之」の項

寛永9年 1632年 -月-日
幕府が渥美友重高田城(越後国)の城代家老として国政を差配するよう命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友重」の項

寛永10年 1633年 1月13日
徳川家光が能勢頼隆・小出吉親に西国の巡見を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第273「能勢頼隆」の項

寛永10年 1633年 1月14日
徳川家光が松平信綱を遣わし佐竹義宣の病の容態を問う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

寛永10年 1633年 1月14日
徳川家光が内藤忠重、半井驢庵を遣わし佐竹義宣の病の容態を問う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

寛永10年 1633年 1月20日
以心崇伝江戸城(武蔵国)城内にある金地院にて死去する。
出典:-

寛永10年 1633年 1月25日
佐竹義宣が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

寛永10年 1633年 2月7日
徳川家光が能勢頼之に下野国都賀郡内で200石を加増する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第274「能勢頼之」の項

寛永10年 1633年 2月7日
徳川家光が下曽根信由に相模国大住郡内にて200石を新たに給付し、信由は総じて1200石を知行する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第149「下曽根信由」の項

寛永10年 1633年 2月7日
徳川家光が柳沢元吉に相模国大住郡内にて200石を給付する。元吉は総じて300石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第965「柳沢元吉」の項

寛永10年 1633年 2月29日
富田信高が死去する。
出典:-

寛永10年 1633年 3月23日
徳川家光が松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次で政務を議し、小事について当人等で処置するように命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永10年 1633年 4月11日
寺沢広高が死去する。
出典:-

寛永10年 1633年 4月19日
松平信綱、堀田正盛が数寄屋方を担当する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永10年 1633年 5月5日
徳川家光が奉書に花押を据える役を土井利勝酒井忠勝、松平信綱とする。
幕府が信綱に15000石を加増し、忍城(武蔵国)城主とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永10年 1633年 5月16日
松平信綱が水口(近江国)に建設予定の御殿の地を検分する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

寛永10年 1633年 6月7日
徳川家光が石川忠総を日田(豊後国)から佐倉(下総国)に移し、10000石を加増して総じて70000石を給付し、佐倉城(下総国)城主とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第118「石川忠総」の項

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.