人 物 史

渥美友重 あつみ ともしげ
生 没 年永禄8年(1565)-正保2年(1645)9/4
出 身-幼 名-
別 称又次郎、久兵衛
法 名正専
戒 名-
渥美友勝鈴木祐念の娘
兄 弟 姉 妹女(松平昌利の妻)、渥美友重渥美半右衛門渥美友真
配 偶 者高木広正の娘
渥美政勝、娘(安藤忠兵衛の妻)、渥美六左衛門、渥美七郎左衛門、娘(忍田六兵衛の妻、小幡内膳の妻)、娘(花井定光の妻)
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第6輯 刊本
関 連 デ ー タ-
渥美友重 年表
永禄8年 1565年 -月-日 1歳
渥美友重が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友重」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友重」の項

元亀1年 1570年 4月23日 6歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 9歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 -月-日 9歳
弟・友真が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友真」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友真」の項

天正7年 1579年 9月15日 15歳
松平信康が父・家康の命により二俣(遠江国)にて自害する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正10年 1582年 5月20日 18歳
織田信長丹羽長秀堀秀政長谷川竹菅屋長頼徳川家康穴山梅雪の饗応を命じる。家康、信君、石川数正、酒井忠次等が饗応を受ける。
出典:『信長公記』巻15(27)「幸若大夫・梅若大夫の事」

天正10年 1582年 5月21日 18歳
徳川家康が上洛する。長谷川竹が家康を案内する。大坂(摂津国)にて家康をもてなすため、津田信澄丹羽長秀が大坂に赴く。
出典:『鷺森日記』同年月日条、『信長公記』巻15(28)「家康公・穴山梅雪、奈良・堺御見物の事」

天正10年 1582年 6月2日 18歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月2日 18歳
徳川家康(和泉国)を発ち、宇治田原(山城国)に到着する。渥美友重が供奉する。
出典:『石川忠総留書』、『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友重」の項

天正10年 1582年 6月3日 18歳
徳川家康が宇治田原(山城国)を発ち、小川(近江国)の多羅尾光俊邸に宿泊する。
出典:『石川忠総留書』

天正10年 1582年 6月4日 18歳
徳川家康が小川(近江国)を発ち、神山(近江国)、桜峠、丸柱(伊賀国)、柘植(伊賀国)、加太を経由し伊勢湾を渡航して三河国に帰還する。
出典:『石川忠総留書』

天正12年 1584年 4月9日 20歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正18年 1590年 2月10日 26歳
徳川家康豊臣秀吉小田原城(相模国)攻めにつき駿府城(駿河国)を出立し、賀島(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:渥美友勝、保科正直、保科正光、青木信時柳沢信俊、山高信直、折井次昌加藤正次秋鹿直朝鈴木信光小尾祐光津金胤久跡部久次酒依昌吉
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第174「酒依昌吉」の項、同965「秋鹿直朝」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正18年 1590年 3月1日 26歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 4月2日 26歳
徳川家康が小田原(相模国)に着陣し、小田原城(相模国)の包囲に加わる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信時」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同250「保科正直」の項、同250「保科正光」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項

天正18年 1590年 5月20日 26歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月21日 26歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月22日 26歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 7月6日 26歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 26歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

文禄1年 1592年 12月8日 28歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 32歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 -月-日 32歳
甥・友次が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友次」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友次」の項

慶長2年 1597年 6月2日 33歳
父・友勝が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友勝」の項

慶長3年 1598年 8月18日 34歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 39歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 41歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長12年 1607年 閏4月8日 43歳
松平秀康が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条

慶長20年 1615年 5月7日 51歳
寅刻(3-5時)、徳川秀忠が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川家康が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・真田信繁長宗我部盛親・仙石秀範・大野治房・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・伊東長実・中島氏種・野々村雅春・青木一重速水守久等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:松平忠直酒井忠世酒井家次本多忠朝(戦死)、小笠原秀政(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、小笠原忠脩(戦死)、黒田長政加藤嘉明松平正久渥美友重[松平忠直勢]、駒井昌保[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)、小倉吉次小倉吉正柳沢元吉丹羽秀重[丹羽長重勢](戦死)。
豊臣秀頼勢:真田信繁(戦死)、大谷吉治(戦死)、石川康勝(戦死)、細川興秋、渡辺糺[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼大坂城(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、本多正純後藤光次を介し、豊臣秀頼淀殿の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同398「小倉吉正」の項

元和1年 1615年 7月13日 51歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 52歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和9年 1623年 2月22日 59歳
清涼院の説得により松平忠直が家督を子・仙千代に譲り隠居する。
出典:-

元和9年 1623年 3月3日 59歳
松平忠直北之庄城(越前国)を退城し、敦賀(越前国)に移る。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 60歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永9年 1632年 1月24日 68歳
徳川秀忠が死去する。
出典:-

寛永9年 1632年 -月-日 68歳
幕府が渥美友重高田城(越後国)の城代家老として国政を差配するよう命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友重」の項

寛永18年 1641年 2月8日 77歳
弟・友真が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第112「渥美友真」の項

正保1年 1644年 12月16日 80歳
「寛永」より「正保」に年号が改まる。
出典:-

正保2年 1645年 9月4日 81歳
渥美友重が高田(越後国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友重」の項

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