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人 物 史
岩瀬氏定
いわせ うじさだ
生 没 年
?-天正3年(1575)5/21
出 身
-
幼 名
-
別 称
-
法 名
加竹
戒 名
-
父
岩瀬氏俊
母
-
兄 弟 姉 妹
岩瀬氏定
、
岩瀬氏則
配 偶 者
-
子
-
官 位
雅楽助
役 職
-
城 郭
-
参 考 文 献
○
国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第6輯 刊本
関 連 デ ー タ
-
岩瀬氏定 年表
- -年 -月-日
岩瀬氏定
が生まれる。
出典:-
天正3年 1575年 5月20日
織田信長
が
酒井忠次
に信長馬廻の鉄砲衆500、
金森長近
、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」
天正3年 1575年 5月21日
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた
武田勝頼
勢に、鳶ノ巣山(三河国)より
酒井忠次
が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、
酒井家次
、
松平家忠
、松平康忠、
松平伊忠
(戦死)・
松平家忠
、
松平清宗
、
小栗忠政
[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、
三枝昌貞
(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する
織田信長
・
徳川家康
の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:
佐々成政
、
前田利家
、
野々村正成
、
福富秀勝
、
塙直政
、
大島光義
。
徳川勢:
石川数正
、
大久保忠世
、
大久保忠佐
、
大須賀康高
、
鳥居元忠
、
平岩親吉
、
松平信一
、
松平忠正
、
松平康安
、
松平康元
、
酒井正親
、
榊原康政
、
本多忠勝
、
渥美友勝
、
岩瀬氏定
(戦死)、
加藤正次
。
武田勢:
馬場信春
(戦死)、
山県昌景
(戦死)、土屋貞綱(戦死)、
土屋昌続
(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、
武田信実
(戦死)、
真田信綱
(戦死)、
真田昌幸
、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、
名和宗安
(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、
米倉重継
(戦死)、青木信定(戦死)、
横手信俊
、
津金胤時
(戦死)、
跡部久直
(戦死)、
酒依昌光
(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項
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