人 物 史

平岩親吉 ひらいわ ちかよし
生 没 年天文11年(1542)-慶長16年(1611)12/30
出 身三河国額田郡坂崎村幼 名-
別 称七之助
法 名-
戒 名平田院殿越翁休岳大居士
平岩親重天野貞親の娘
兄 弟 姉 妹平岩正広、平岩親吉、平岩康重、平岩康長、女(山田半右衛門の妻)、女(平岩真野左衛門の妻)、女(渡辺守綱の妻)、女(山田内右衛門の妻)
配 偶 者石川正信の娘
平岩縫殿、平岩伯耆守、堀正重
官 位主計頭
役 職-
城 郭厩橋城(上野国)、甲府城(甲斐国)、犬山城(尾張国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる平岩親吉の呼称
平岩親吉の関連文化財
平岩親吉 年表
天文11年 1542年 -月-日 1歳
平岩親吉が三河国額田郡坂崎村にて生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 14歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 17歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 19歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

元亀1年 1570年 4月23日 29歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 32歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 34歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 34歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正3年 1575年 12月27日 34歳
徳川家康が水野信元・信政父子を大樹寺(三河国)に呼び寄せ殺害する。平岩親吉が信元を斬る。
出典:-

天正6年 1578年 9月25日 37歳
徳川家康より国衆に通達されていた国衆の岡崎城(三河国)詰め無用の件について、石川数正平岩親吉が、松平家忠に在所(深溝(三河国)に帰るよう伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月7日 37歳
松平家忠のもとに山崎(尾張国)にいる水野忠分より飛脚が到来し、荒木村重織田信長に敵対したことを伝える。また藤太は家忠に音信として鱈2本を贈る。家忠は平岩親吉にその鱈を贈る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月26日 38歳
松平家忠岡崎(三河国)に居る平岩親吉石川数正のもとに赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月15日 39歳
松平家忠岡崎(三河国)に居る平岩親吉石川数正のもとに赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正18年 1590年 5月20日 49歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月21日 49歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月22日 49歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]、小尾祐光津金胤久跡部久次[平岩親吉勢](戦死)。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久次」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 8月-日 49歳
徳川家康が近習・外様を五組に分け、その長を榊原康政井伊直政本多忠勝平岩親吉石川康通に補任する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

文禄1年 1592年 12月8日 51歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 55歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長16年 1611年 12月30日 70歳
平岩親吉名古屋城(尾張国)二ノ丸にて死去する。
出典:『当代記』慶長17年1月4日条

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