天文16年 1547年 3月-日 |
三好之虎が下桂(山城国)に三好勢による乱入狼藉、山林・竹木伐採、矢銭・兵糧米の賦課を停止する禁制を発給する。 |
出典:天文16年3月日付三好実休禁制(「北川家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-188号) |
天文16年 1547年 4月1日 |
細川晴元が三好長慶ら淡路・四国衆30000をもって足利義晴・義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻める。 |
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」 |
天文16年 1547年 4月9日 |
改名して宣忠と名乗る。 |
出典:『系図纂要』「中御門」 |
天文16年 1547年 4月10日 |
足利義晴・義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻めていた三好長慶ら淡路・四国衆30000が摂津国国衆の制圧を優先した細川晴元の命により摂津国に引き上げる。 |
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」 |
天文16年 1547年 4月19日 |
三宅城(摂津国)攻略につき音信として巻数・香水代100疋を贈ってくれた法隆寺に三好政長が返礼の書状を送る。 |
出典:天文16年4月19日付三好宗三書状(「法隆寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-192号) |
天文16年 1547年 4月26日 |
小早川徳寿丸が五ヶ龍王山(備後国)を攻める。 |
出典:(天文16年)5月3日付小早川徳寿丸感状写(『戦国遺文』瀬戸内水軍編60号「萩藩閥閲録』嶋末与三) |
天文16年 1547年 5月5日 |
細川晴元が芥川山城(摂津国)に籠城する薬師寺与一を攻撃する。攻め衆は三好長慶ほか。 |
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」 |
天文16年 1547年 6月17日 |
本圀寺日泰・法華寺日要・本能寺日宗が六角家重臣進藤貞治・平井高好に、法華衆と延暦寺との和睦の条件について、白袈裟・素絹・朱柄笠・塗足駄を用いて徘徊しないこと、紫以上の袈裟を寺内であっても着用しないこと、地下人の葬送の際に勅会の際に着用する装束は着ないこと、輿に乗って洛中を徘徊しないこと、平絹の白五条を着用すること、僧俗ともに法席以外で一般人に対し「法理」と言って争論をしないことを提示する。また、日吉祭の祭礼費用として法華衆が毎年3月に100貫文を坂本(近江国)にて進納することを伝える。 これを受け、六角定頼は、法華衆の和睦条件を延暦寺三院執行代御坊中に伝える。 |
出典:延暦寺・日蓮衆徒講話文書案(『蜷川家文書』3-605号) |
天文16年 1547年 6月25日 |
三好之虎が賀茂社領境内宛に三好勢の乱入・狼藉、山林竹木伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。 |
出典:天文16年6月25日付三好実休禁制(「賀茂別雷神社文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-194号) |
天文16年 1547年 6月25日 |
三好長慶の攻撃を受けていた芥川山城(摂津国)に籠る薬師寺与一が長慶に降伏する。 |
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」 |
天文16年 1547年 6月26日 |
元服する。宮内権大輔となり従五位上に叙される。 |
出典:『系図纂要』「柳原」 |
天文16年 1547年 7月6日 |
八幡宮に社領返付の旨を三好政長・高畠長直が伝える。 |
出典:(天文16年)7月6日付三好宗三・高畠長直連署状(「桂文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-196号) |
天文16年 1547年 7月12日 |
細川晴元の要請を受けた六角定頼・義賢が、足利義晴・義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。 |
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」 |
天文16年 1547年 7月12日 |
細川晴元が四国勢を率い上洛し相国寺に陣取る。 晴元の要請を受けた晴元舅・六角定頼が、足利義晴・義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。 |
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」 |
天文16年 1547年 7月12日 |
細川晴元の要請を受けた六角定頼・義賢が、足利義晴・義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。 三好長慶、三好政長が軍勢30000をもって河内十七箇所に陣取る。 |
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」 |
天文16年 1547年 7月12日 |
三好之虎が軍勢を率い尼崎(摂津国)に向かう。 |
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」 |
天文16年 1547年 7月19日 |
細川晴元・六角定頼の包囲を受け耐えられず足利義晴・義藤父子が籠城していた北白川城(山城国)を自焼し東坂本(近江国)に逃れる。 |
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」 |
天文16年 1547年 7月21日 |
舎利寺の合戦にて、三好之虎・安宅冬康・松浦肥前守・畠山上総介・遊佐越中守と畠山政国・細川四郎・遊佐長教が戦い三好勢他が勝利する。 |
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」 |
天文16年 1547年 7月24日 |
三好之虎、安宅冬康、畠山上総介が堺に入り河内国攻めの評定を開く。 |
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」 |
天文16年 1547年 7月26日 |
三好長慶、三好政長が河内十七箇所から住吉・遠里・小野・深ノ口に陣替えする。 |
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」 |
天文16年 1547年 7月29日 |
足利義藤が細川晴元・六角定頼・義賢父子を赦免する。両人が義晴のいる坂本(近江国)に出仕する。ただし、晴元は義晴とは対面できず。 晴元・定頼間で諸事協議がなされる。 |
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」、『厳助往年記 上』同年月日条 |
天文16年 1547年 閏7月3日 |
細川晴元が細川国慶の籠る高雄城(山城国)を攻撃するため20000の軍勢を率い出陣する。晴元は龍安寺を陣所とする。晴元の出陣につき、六角定頼が進藤貞治・永原・三雲・蒲生定秀・青地ら軍勢500を援軍として送る。 |
出典:『厳助往年記』同年同月条 |
天文16年 1547年 閏7月3日 |
左兵衛佐となる。 |
出典:『系図纂要』「柳原」 |
天文16年 1547年 閏7月5日 |
細川晴元が細川国慶の籠る高雄城(山城国)を攻め落とす。この戦いで神護寺の堂舎全てが放火される。 |
出典:『厳助往年記』同年同月条 |
天文16年 1547年 閏7月11日 |
天王寺の東にて三好政長と畠山勢が戦う。三好政長勢は、侍311人、他800人程を討ち取る。ただし、政長方も侍37人、雑兵75人が討死し、とりわけ篠原盛家、安宅佐渡守、藤田山城が戦死。彼らの死を惜しむ。 |
出典:(天文16年)閏7月14日付三好宗三書状(「波多野家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-198号) |
天文16年 1547年 閏7月14日 |
7月11日、波多野与兵衛尉が上野玄蕃、内藤彦五郎、宇津元朝、野々口牛助を破ったことについて、三好政長がその勝利を祝う。 |
出典:(天文16年)閏7月14日付三好宗三書状(「波多野家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-198号) |
天文16年 1547年 閏7月29日 |
足利義藤のもとに細川晴元が挨拶に訪れる。晴元と六角定頼が諸事を協議する。 |
出典:『厳助大僧正記』同年同月条 |
天文16年 1547年 8月11日 |
三好長慶・三好之虎・安宅冬康が河内国に攻め入り若林に陣取る。畠山政国の籠る高屋城(河内国)から出撃してきた畠山家足軽と三好長慶が戦う。 |
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」 |
天文16年 1547年 9月3日 |
織田信秀が美濃国に攻め入る。 |
出典:『信長公記』(首巻)みのゝ国へ乱入し五千討死の事 |
天文16年 1547年 9月22日 |
織田信秀が稲葉山城(美濃国)を攻撃する。青山与三左衛門尉が戦死する。 |
出典:『信長公記』(首巻)みのゝ国へ乱入し五千討死の事 |