天文19年 1550年 11月21日 |
足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元は坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文19年 1550年 11月23日 |
三好長慶が21日に足利義藤が自焼した中尾城(山城国)を破却する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文19年 1550年 11月24日 |
三好長慶が諸国から動員した軍勢を解散する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文19年 1550年 11月26日 |
右大弁となる。 |
出典:『系図纂要』「勧修寺」 |
天文19年 1550年 11月-日 |
京極六郎が美濃国より近江国に攻め入り、多賀・四十九・枝村(近江国)等を放火する。 |
出典:『厳助往年記』同年月日条 |
天文19年 1550年 12月22日 |
権大納言となる。 |
出典:『系図纂要』「万里小路」 |
天文19年 1550年 12月23日 |
笠寺別当職について、織田信長が父・信秀の判形にのっとり参銭・開帳の収取権を熱田社座主坊に安堵する。 |
出典:天文19年12月23日付織田信長判物(『増訂織田信長文書の研究 上巻』3号(「密蔵院文書」)) |
天文19年 1550年 -月-日 |
島津貴久が伊集院城(薩摩国)より内城(薩摩国)に移る。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項 |
- -年 -月-日 |
飯尾為完が死去する。 |
出典:- |
- -年 -月-日 |
飯尾盛就が死去する。 |
出典:- |
- -年 -月-日 |
飯尾堯運が死去する。 |
出典:- |
- -年 -月-日 |
渥美又左衛門が死去する。 |
出典:- |
天文20年 1551年 -月-日 |
穂井田元清が生まれる。 |
出典:- |
天文20年 1551年 -月-日 |
桑名吉成が生まれる。 |
出典:- |
天文20年 1551年 -月-日 |
青木一重が生まれる。 |
出典:- |
天文20年 1551年 -月-日 |
毛利重政が尾張国苅安賀にて生まれる。 |
出典:- |
天文20年 1551年 -月-日 |
下間仲孝が生まれる。 |
出典:- |
天文20年 1551年 -月-日 |
金子元宅が伊予国新居にて生まれる。 |
出典:- |
天文20年 1551年 -月-日 |
富田久次が生まれる。 *『寛政重修諸家譜』巻第397「富田久次」の項の没年・享年記載より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第397「富田久次」の項 |
天文20年 1551年 1月20日 |
今村慶満、松永長頼が北小栗栖(山城国)にて醍醐寺領の者6名を搦め取る。 |
出典:『厳助往年記』同年月日条 |
天文20年 1551年 1月30日 |
伊勢貞孝が足利義藤を連れて密かに上洛させようとしたところ上洛計画が露見する。義藤は近江国に止まるが、貞孝は上洛する。 |
出典:『言継卿記』同年2月1日条、『厳助往年記』同年2月条 |
天文20年 1551年 1月-日 |
三好長逸が醍醐寺の庭を見物し、厳助より酒をすすめられる。 |
出典:『厳助往年記』同年月条 |
天文20年 1551年 2月7日 |
志賀(近江国)にて松永長頼・松永久秀と六角義賢が戦い、義賢が勝利する。 |
出典:『足利季世記』巻5「進士九郎賢光ノ事」 |
天文20年 1551年 2月16日 |
山科言継が上洛をした三好長慶と松永久秀のもとに大沢掃部を遣わす。東寺にいた久秀は、大沢掃部とともに吉祥院(山城国)を居所としていた長慶のもとに赴くが留守であったため大沢掃部と別れる。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 2月22日 |
近江国内で六角定頼に反抗する勢力の蜂起があったため、細川晴元が坂本(近江国)から対岸に渡航する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 2月24日 |
三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に攻め入る。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 2月26日 |
三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に入り、同地にて山陣する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 2月27日 |
三好長慶勢、伊勢貞孝が大津(近江国)を放火する。その後、三好・伊勢勢は志賀(近江国)より京都に帰陣する。三好・伊勢勢の撤退を受け、六角義賢が追撃の軍勢を遣わす。鹿ヶ谷にて六角勢と三好長虎が戦う。六角勢が北白川(山城国)に出没し放火する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条 |
天文20年 1551年 2月28日 |
六角義賢の軍勢が東門前・鹿ヶ谷・岡崎・若王寺・粟田口・山科・日岡・四宮(山城国)を放火し、鴨川に野伏せりを掛ける。これを受け、三好長慶は伊勢貞孝、今村慶満を遣わすも六角勢は撤退する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条 |
天文20年 1551年 3月2日 |
三好長慶が軍勢20000のをもって岩倉(山城国)の山本館を攻め、放火する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |