天文20年 1551年 3月3日 |
織田信秀が死去する。 |
出典:- |
天文20年 1551年 3月4日 |
三好長慶が軍勢1000を引き連れ伊勢貞孝のもとを訪れる。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 3月7日 |
伊勢貞孝が吉祥院(山城国)にいる三好長慶のもとを訪れる。長慶の居所に小童が忍び入り焼き討ちを企てるが捕える。長慶は東寺の松永久秀陣所に移る。 |
出典:『言継卿記』同年月8日条 |
天文20年 1551年 3月9日 |
出家し等棋と称す。 |
出典:『系図纂要』「万里小路」 |
天文20年 1551年 3月14日 |
三好長慶が伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。 宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。 |
出典:『言継卿記』同年月14・15日条 |
天文20年 1551年 3月15日 |
香西元成・柳本・宇津・三好政勝と三好長虎率いる軍勢20000が戦い、長虎が勝利する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 3月16日 |
三好長慶が見舞いに訪れた使者と面会し無事を伝える。 三好長虎率いる軍勢20000が3月14日に香西元成・三好政勝らが陣取った西賀茂・正伝寺(山城国)を放火する。その後、長虎の軍勢は東に向かう。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 3月17日 |
三好長慶の無事が噂される。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 3月23日 |
山科言継が三好長慶を見舞う使者を送る。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 3月26日 |
山崎(山城国)にいる三好長慶のもとに山科言継の使者・大澤掃部が訪れるが逢えず。掃部には松永久秀、鳥養兵部が応対する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 3月27日 |
権中納言となる。 |
出典:『系図纂要』「冷泉」 |
天文20年 1551年 4月3日 |
山科言継が小山新四郎より薬を購入する。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文20年 1551年 5月5日 |
遊佐長教が若江城(河内国)城内にて珠阿弥に暗殺される。 |
出典:- |
天文20年 1551年 5月5日 |
若江城(河内国)にて父・長教が珠阿弥に暗殺される。 |
出典:- |
天文20年 1551年 5月26日 |
真田幸綱が砥石城(信濃国)を乗っ取る。 |
出典:- |
天文20年 1551年 6月18日 |
松平信長が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第27「松平信長」の項 |
天文20年 1551年 7月14日 |
細川晴元の命により三好政勝、香西元成、柳本、山本、山中、織田左近大夫、十河左介、岸和田が軍勢3000で等持寺に打ち入り、相国寺に立て籠る。そこに、松永久秀・松永長頼が率いる摂津・河内・大和の軍勢40000が攻め寄せ、両勢交戦の末、松永勢が勝利する。松永勢は相国寺を放火する。 |
出典:『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大内殿生害之事並家伝之事」 |
天文20年 1551年 7月17日 |
島津忠長が生まれる。 |
出典:- |
天文20年 1551年 8月16日 |
大友義鎮が肥後国に向けて府内城(豊後国)より出陣する。佐伯惟教、志賀親安、志賀鑑高、朽網鑑安、田原紹忍。 |
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」 |
天文20年 1551年 8月19日 |
大友義鎮が坂足(肥後国)に陣取る。 |
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」 |
天文20年 1551年 8月20日 |
大友義鎮が小国(肥後国)に陣取り、満願寺(肥後国)に本陣を置く。 |
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」 |
天文20年 1551年 8月-日 |
大友義鎮が、佐伯惟教に合志常陸守の合志城(肥後国)を攻めを命じる。惟教は合志城を攻め、同城を落とす。 |
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」 |
天文20年 1551年 8月23日 |
大友義鎮が城弥三郎の隈部城(肥後国)に志賀、朽網鑑安を遣わす。弥三郎は義鎮に降伏する。 |
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」 |
天文20年 1551年 8月28日 |
大友義鎮が宇土佐兵衛の宇土城(肥後国)を攻める。 |
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」 |
天文20年 1551年 8月29日 |
子・公頼が周防国で陶隆房の謀反にあい死去する。 |
出典:『系図纂要』「三条」 |
天文20年 1551年 9月1日 |
大内義隆が陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。 |
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」 |
天文20年 1551年 9月1日 |
宇土佐兵衛が大友義鎮に降伏する。 |
出典:『陰徳太平記』巻20「大友義鎮肥後国発向之事」 |
天文20年 1551年 9月8日 |
毛利隆元・吉川元春・小早川隆景が西条飯田(安芸国)に出陣する。 |
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収) |
天文20年 1551年 9月11日 |
毛利元就・毛利隆元・吉川元春・小早川隆景が槌山を攻める。 |
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収) |
天文20年 1551年 9月-日 |
安宅冬康が東寺・同境内に軍勢の乱暴狼藉、陣取・寄宿、竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、放火を禁じる禁制を発給する。 |
出典:天文20年9月日付安宅鴨冬禁制(東寺百合文書WEB「東寺百合文書」ヤ函193) |