天正9年 1581年 6月17日 |
筒井順慶が鳴川又助の子を討つ。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正9年 1581年 6月25日 |
羽柴秀吉が鳥取城(因幡国)を攻めるべく姫路城(播磨国)より出陣する。 |
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』 |
天正9年 1581年 6月27日 |
織田信長が七尾城(能登国)城代の菅屋長頼に命じ、遊佐続光・遊佐弟・伊丹孫三郎を切腹させる。 |
出典:『信長公記』巻14(5)「能登国年寄共生害の事」 |
天正9年 1581年 6月28日 |
羽柴秀吉が吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を攻める。 |
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』 |
天正9年 1581年 6月-日 |
この頃、新発田重家が上杉景勝に叛旗を翻す。 |
出典:(天正9年)6月12日付織田信長朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2145号) |
天正9年 1581年 6月-日 |
黒金景信・広居忠家・山田長秀・吉益清定・楠川将綱が察花・極楽寺両村に狼藉の者があれば追捕する旨の制札を発給する。 |
出典:(天正9年)6月日付黒金景信等五名連署制札(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2153号) |
天正9年 1581年 7月1日 |
羽柴秀吉が吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を攻めるべく、付城を築き杉原家次を入れ、鳥取城への路次を封鎖する。 |
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』 |
天正9年 1581年 7月3日 |
松平家忠が相良(遠江国)に砦を築く。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項 |
天正9年 1581年 7月5日 |
羽柴秀吉が吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を包囲する。 |
出典:『綿考輯録』巻4、『黒田家譜』巻2「孝高記」 |
天正9年 1581年 7月6日 |
石黒成綱、石黒与左衛門、伊藤次右衛門、水巻采女佐が上洛中、織田信長の命を受けた丹羽長秀により殺害される。 |
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」 |
天正9年 1581年 7月12日 |
松平親俊が三河国福釜にて死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第4「松平親俊」の項 |
天正9年 1581年 7月13日 |
十河存保が西庄城(讃岐国)を攻める。 |
出典:『南海通紀』巻14「三好存保陥綾北条城記」 |
天正9年 1581年 7月15日 |
安土城天主と惣見寺にたくさんの提灯をつり、馬廻衆が道と琵琶湖に浮かべた船に松明をかかげる。山上が輝き、水面に映るさまを多くの人が見物する。 |
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」 |
天正9年 1581年 7月17日 |
丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)にて身柄を拘束されていた寺崎盛永・喜六郎父子が織田信長の命により切腹する。 |
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」 |
天正9年 1581年 7月20日 |
大宝寺義氏が織田信長に音信とし鷹・馬を贈る。 |
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」 |
天正9年 1581年 7月25日 |
織田信忠が安土城(近江国)に訪れる。 |
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」 |
天正9年 1581年 7月26日 |
筒井順慶が一乗院の慈恩会のことについて森猪介を使者として遣わす。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正9年 1581年 8月1日 |
織田信長が安土城(近江国)にて馬揃を行う。 |
出典:『信長公記』巻14(7)「八月朔日御馬揃への事」 |
天正9年 1581年 8月6日 |
蘆名盛隆が織田信長に音信として馬を贈る。 |
出典:『信長公記』巻14(7)「八月朔日御馬揃への事」 |
天正9年 1581年 8月14日 |
織田信長が鳥取城(因幡国)攻囲中の羽柴秀吉に馬3匹を送る。使者は高山重友。 |
出典:『信長公記』巻14(7)「八月朔日御馬揃への事」 |
天正9年 1581年 8月17日 |
織田信長が荒木村重の残党を高野山が匿ったうえ、残党請取に赴いた織田家の使者を高野山が殺害したとして、高野聖数百名を殺害する。 |
出典:『信長公記』巻14(8)「高野聖御成敗の事」 |
天正9年 1581年 8月17日 |
織田信長が前田利家に能登国 鹿島・羽咋・鳳至・珠洲の4郡を給付する。 |
出典:『信長公記』巻14(8)「高野聖御成敗の事」 |
天正9年 1581年 8月18日 |
松蔵式部の33回忌として松蔵秀政が東大寺大仏において千部経法会を執行する。 |
出典:『多聞院日記』同年月19日条 |
天正9年 1581年 8月19日 |
佐久間信盛が十津川にて死去したと聞いた織田信長が、信盛の滞在していた高野山の宿坊の蔵に保管されていた信盛の所有物を差し押さえすべく使者を遣わす。しかし、使者は殺害されたため、諸国の高野聖を捕縛するという事件が起きる。23日に高野山攻めが行われると噂される。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正9年 1581年 8月19日 |
朝、母が死去する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正9年 1581年 8月23日 |
羽柴秀吉の鳥取城(因幡国)攻めの加勢として松井康之が鳥取に着陣する。 |
出典:『綿考輯録』巻4 |
天正9年 1581年 8月-日 |
織田信長が七尾城(能登国)城代の菅屋長頼に命じ、能登国・越中国の城を破却する。 |
出典:『信長公記』巻14(9)「能登・越中城々破却の事」 |
天正9年 1581年 9月1日 |
筒井順慶が一乗院尊政に慈恩会について申し入れをし、来年の春に執行する旨を返答する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天正9年 1581年 9月3日 |
織田信長が伊賀国攻めを命じる。甲賀口より堀秀政を大将に小姓衆・近江衆の丹羽長秀・蒲生氏郷・京極高次・多賀常則・山崎源太左衛門・阿閉貞征、伊勢口より北畠信雄・滝川一益、南伊賀へは宇多郡衆、西より畑口から筒井順慶、黒田へ福住が攻め込む。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」 |
天正9年 1581年 9月5日 |
母・妙久の旗2流を西屋へ寄進する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |