人 物 史

蒲生氏郷 がもう うじさと
生 没 年弘治2年(1556)-文禄4年(1595)2/7
出 身近江国幼 名鶴千代
別 称忠三郎、教秀、賦秀
法 名-
戒 名-
蒲生賢秀-
兄 弟 姉 妹蒲生氏信、蒲生氏春、蒲生氏郷、蒲生重郷、蒲生貞秀、娘(布施忠兵衛の妻)、娘(田丸直昌の妻)、娘(小倉行春の妻)
配 偶 者相応院(織田信長の娘)
蒲生秀行
官 位右衛門大夫、飛騨守、参議、侍従、左近衛権中将
役 職-
城 郭日野城(近江国)、松坂城(伊勢国)、会津若松城(陸奥国)
参 考 文 献蒲生氏郷に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる蒲生氏郷の呼称
蒲生氏郷の関連文化財
蒲生氏郷の家臣
蒲生氏郷 年表
弘治2年 1556年 -月-日 1歳
蒲生氏郷が生まれる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 3歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄11年 1568年 8月7日 13歳
織田信長が軍勢をともない佐和山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻1(3)「信長御憑み御請の事」

永禄11年 1568年 9月7日 13歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 13歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月10日 13歳
織田信長が近江国中郡に侵攻する。これを受け、岩成友通が、朝、坂本(近江国)に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月11日 13歳
織田信長が近江国にて六角承禎と交戦する。一旦、美濃に引き上げる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月12日 13歳
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月14日 13歳
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

- -年 -月-日 
蒲生鶴千代が元服し、織田信長より信長の官位「弾正忠」から「忠」の字を与えられ忠三郎教秀と名乗る。
出典:『蒲生氏郷記』

元亀1年 1570年 4月23日 15歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月-日 15歳
織田信長の越前国攻めに参加し自ら槍をふるって功名をあげる。
出典:『蒲生氏郷記』

- -年 -月-日 
甲賀衆と戦い侍衆を討ち取る。
出典:『蒲生氏郷記』

元亀2年 1571年 9月12日 16歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月16日 18歳
織田信長足利義昭の在城する槙島城(山城国)を攻めるべく、先勢を五ヶ庄・宇治に陣取らせる。信長の出馬は17日と決まる。先陣は、稲葉良通貞通父子で、平等院門前にて鬨の声をあげる。この城攻めに明智光秀荒木村重蒲生氏郷佐久間信盛柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆細川藤孝忠興父子が五ヶ庄より攻める衆に加わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(8)「真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事」

元亀4年 1573年 7月17日 18歳
織田信長が京都を発ち五ヶ庄に着陣し、岡屋の所を本陣とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月18日 18歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 18歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月8日 18歳
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日 18歳
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日 18歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日 18歳
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 18歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日 18歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日 18歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 18歳
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 18歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 18歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日 18歳
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 18歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 18歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正6年 1578年 8月15日 23歳
織田信長が近江・京都の相撲取をはじめ1500人を安土城(近江国)に集めて大相撲会を行う。蒲生氏郷が相撲に加わる。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正6年 1578年 10月21日 23歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 23歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 23歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 23歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 23歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 3月27日 24歳
祖父・定秀が死去する。
出典:-

天正7年 1579年 4月29日 24歳
織田信長有岡城(摂津国)への備えとして、塚口郷に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷を、塚口郷の東の田中に福富秀勝・山岡景佐・山城衆を、毛馬村に細川藤孝忠興・興元父子を、川端砦に池田恒興元助池田輝政父子を、四角屋敷に氏家直昌を、河原砦に稲葉貞通・芥川を、賀茂岸に塩川伯耆・安藤守就・伊賀七郎を、池上に織田信忠勢を、昆陽古城に滝川一益・武藤舜秀を、深田に高山重友を、倉橋に池田元助を定番として置く。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 9月2日 24歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 24歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 24歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 24歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 24歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 24歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 24歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月20日 24歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正9年 1581年 1月8日 26歳
左義長につき、蒲生氏郷が爆竹を北方東一番におこなうよう命じられる。
出典:『信長公記』巻14 同年月日条

天正9年 1581年 9月3日 26歳
織田信長が伊賀国攻めを命じる。甲賀口より堀秀政を大将に小姓衆・近江衆の丹羽長秀蒲生氏郷京極高次多賀常則・山崎源太左衛門・阿閉貞征、伊勢口より北畠信雄滝川一益、南伊賀へは宇多郡衆、西より畑口から筒井順慶、黒田へ福住が攻め込む。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月10日 26歳
伊賀国を攻めている織田信雄の軍勢が同国内の寺社を焼き討ちする。滝川一益堀秀政が佐野具(伊賀国)より出勢した伊賀国衆の足軽と戦う。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月11日 26歳
佐野具城(伊賀国)に北畠信雄が入城する。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月15日 26歳
筒井順慶の伊賀国攻めの攻め口の諸城20ヶ所余が降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月15日 27歳
蒲生氏郷が左義長につき爆竹を北方東一番に行うよう命じられる。
出典:『信長公記』巻15(2)「御爆竹の事」

天正10年 1582年 3月5日 27歳
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 27歳
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月9日 27歳
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日 27歳
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 27歳
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日 27歳
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日 27歳
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日 27歳
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月17日 27歳
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月18日 27歳
織田信長高遠城(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月19日 27歳
織田信長津田信澄菅屋長頼矢部家定堀秀政長谷川秀一福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼蒲生氏郷細川忠興池田元助蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光高山重友中川清秀明智光秀丹羽長秀筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」

天正10年 1582年 3月24日 27歳
織田信長武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 6月3日 27歳
本能寺の変により安土城(近江国)より上臈衆が立ち退くにあたりに城に火をかけることを提案するが、留守居・蒲生賢秀が「天下無双の御屋作り」を失うことを惜しみ、また金銀・名物を損じることがあっては世間の嘲笑を受けるといって、火をかけることを止める。
出典:『信長公記』巻15 同年月日条

天正10年 1582年 6月27日 27歳
羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興柴田勝家が織田家宿老として知行の宛行いをする。
蒲生氏郷…近江国南郡佐久間分内で1万石
高山重友…摂津国能勢郡内で3000石、近江国佐久間分内で1000石の計4000石
堀秀政…近江国坂田郡25000石(御台所入として)
出典:天正10年6月27日付羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・柴田勝家連署状(『豊臣秀吉文書集』1巻-446・447・448号)

天正11年 1583年 4月24日 28歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 -月-日 28歳
子・秀行が生まれる。
出典:-

天正12年 1584年 3月-日 29歳
筒井順慶蒲生氏郷羽柴秀長が松ヶ嶋城(伊勢国)を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正12年 1584年 4月9日 29歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 4月17日 29歳
父・賢秀が死去する。
出典:-

天正12年 1584年 6月13日 29歳
蒲生氏郷日野城(近江国)より松ヶ島城(伊勢国)に移る。
出典:『木造記』

天正12年 1584年 6月17日 29歳
蒲生氏郷が貝塚本願寺にいる本願寺顕如に、今後、良好な関係を築きたいと音信を遣わす。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 6月-日 29歳
蒲生氏郷が伊勢国に入部する。
出典:『蒲生氏郷記』

天正12年 1584年 9月15日 29歳
会原で蒲生氏郷と木造左衛門が戦い、氏郷が勝利する。氏郷は木造左衛門の日置城(伊勢国)まで攻め入り、家老から総攻撃の進言を受けるが、この日の勝利で敵は自ら降伏するといって攻撃を止める。
出典:『蒲生氏郷記』

天正12年 1584年 9月16日 29歳
日置城(伊勢国)の木造左衛門が蒲生氏郷に降伏する。
出典:『蒲生氏郷記』

天正12年 1584年 -月-日 29歳
羽柴秀吉蒲生氏郷に伊勢国5郡12万石を給付する。
出典:『蒲生氏郷記』

天正12年 1584年 -月-日 29歳
木造左衛門が蒲生領内に苅田狼藉をしかけてきたので、蒲生氏郷自ら討伐に赴く。
出典:『蒲生氏郷記』

天正12年 1584年 -月-日 29歳
木造左衛門が小川内にて蒲生氏郷を待ち伏せしていたところ、蒲生氏郷自ら伏兵に襲い掛かり首級18をあげる。
出典:『蒲生氏郷記』

天正12年 1584年 -月-日 29歳
小川内にて蒲生氏郷と木造左衛門が戦う。
出典:『蒲生氏郷記』

天正13年 1585年 7月11日 30歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月-日 30歳
羽柴秀吉勢として越中国に織田信雄織田信包前田利家前田利長丹羽長重細川忠興金森長近蜂屋頼隆宮部継潤池田輝政稲葉貞通蒲生氏郷、木村定重、堀尾吉晴山内一豊加藤光泰九鬼嘉隆が陣取る。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正15年 1587年 1月25日 32歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 32歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 32歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 32歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 32歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 32歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 32歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 32歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 32歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 32歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 32歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 32歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 32歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 32歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 32歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 32歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 32歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 32歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 32歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 32歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 32歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 32歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 32歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正16年 1588年 4月14日 33歳
後陽成天皇が聚楽第(山城国)に行幸する。秀吉の前駈(右列)に石田三成大谷吉継片桐且元が、前駈(左列)に増田長盛加藤嘉明が供をする。秀吉に続き、織田信包織田長益前田利家蒲生氏郷長宗我部元親蜂屋頼隆細川忠興が、鳳輦についで織田信雄徳川家康豊臣秀次豊臣秀長近衛信輔烏丸光宣持明院基孝東坊城盛長広橋兼勝が、近衛大将の左として鷹司信房が供奉する。
出典:『多聞院日記』同年5月4日条、『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 4月16日 33歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「仰ぐ代の 人の心の たねとてや ちとせを契る 松のことの葉」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 9月2日 33歳
千利休蒲生氏郷に書状を送り、大仏殿の家の屋根を一昨日に葺いたこと、9月中の茶の湯をすること、般若壺の茶を服したが天下一とは言えないことを伝える。
出典:天正16年9月22日千利休書状和歌山県立博物館編『没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』(2008年10月)

天正17年 1589年 11月-日 34歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。蒲生氏郷は軍勢4000で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

天正18年 1590年 3月1日 35歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 3月29日 35歳
豊臣秀吉が箱根山に着陣する。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 35歳
豊臣秀次が松田康長が籠る山中城(伊豆国)攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀次[大将]、中村一氏[先陣]、一柳直末[先陣](戦死)、渡辺了[中村一氏勢]、薮内匠[中村一氏勢]。
北条勢:松田康長[大将](戦死)。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 3月29日 35歳
豊臣勢が韮山城(伊豆国)を包囲する。
豊臣勢[44100]:織田信雄[軍勢17000]、織田信包[軍勢3200]、蒲生氏郷[軍勢4000]、稲葉貞通[軍勢1200]、細川忠興[軍勢2700]、森忠政[軍勢2100]、中川秀政[軍勢2000]、山崎・岡本良勝[軍勢2200]、筒井定次[軍勢1500]、生駒親正[軍勢2200]、蜂須賀家政[軍勢2500]、福島正則[軍勢1800]、戸田勝隆[軍勢1700]。
出典:(天正18年)3月29日付豊臣秀吉朱印状(「三英傑と名古屋」展実行委員会編『三英傑と名古屋』2014年10月)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)、韮山城取巻人数書(『毛利家文書』4-1560号)、(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)『黒田家譜』巻5「孝高記」、『太閤さま軍記のうち』

天正18年 1590年 8月11日 35歳
豊臣秀吉が会津(陸奥国)を蒲生氏郷に給付することを浅野長政に伝える。
出典:(天正18年)8月11日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』60号)

天正18年 1590年 8月15日 35歳
豊臣秀吉蒲生氏郷に陸奥国会津郡大沼・河沼・稲川・山部・猪苗代・南ノ山・白河・石川・岩瀬・安積・二本松の70万石を宛行う。この日、氏郷が会津に入る。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 10月22
-
蒲生氏郷が葛西・大崎で一揆蜂起の噂を聞き、出撃の準備をするよう家中に申し触れる。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 10月26日 35歳
葛西・大崎一揆蜂起が事実であることを確認した蒲生氏郷が、鎮圧に向かうため、小倉孫作・関万鉄・蒲生左門・蒲生喜内・北川平左衛門を会津若松城(陸奥国)、の留守居とし、仙道に田丸直昌を置く。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 10月28日 35歳
蒲生氏郷が葛西・大崎一揆鎮圧のため先手を出撃させる。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 11月5日 35歳
蒲生氏郷が葛西・大崎一揆鎮圧のため会津若松城(陸奥国)を発ち猪苗代に陣を張る。
出典:『蒲生氏郷記』、『佐久間軍記』

天正18年 1590年 11月6日 35歳
大雨のため蒲生氏郷は阿子ヶ島に滞在する。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 11月7日 35歳
蒲生氏郷が二本松(陸奥国)に陣を張る。
葛西・大崎一揆鎮圧のため軍勢10000を率い陸奥国信夫郡鎌田・本折・杉ノ目に陣を張る。
二本松には伊達勢が到着していたが、伊達政宗に謀叛の噂があり心配した家臣から2、3日様子をみてはどうかと進言をうける。この進言に氏郷は腹を立て、政宗が謀叛を起こした場合は一戦を交えれば良いし、そのつもりで会津を発っていると覚悟をみせ、伊達勢よりも先に軍を進めるよう命じる。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 11月8日 35歳
蒲生氏郷が伊達領の大森城(陸奥国)に着陣する。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 11月17日 35歳
蒲生氏郷が一揆勢の境である伊達領の黒川に着陣する。行程を相談するため伊達政宗のもとを訪れる。政宗に一揆勢の城が何ヶ所あり、木村吉清の籠る佐沼城までは何里かを尋ねる。また明日より高清水に押し寄せることを打ち合わせる。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 11月18日 35歳
蒲生氏郷が中新田城(陸奥国)に陣を張る。
伊達政宗が在々所々を放火。鹿間・中新田に進むが支えきれず退き七八町に陣を張る。
政宗は持病を発症したため明日からの攻撃を延期するように申し出るが氏郷は進軍する旨を政宗に伝え、氏郷勢の後より進軍するよう伝える。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 11月19日 35歳
蒲生氏郷伊達政宗が名生城(陸奥国)を攻め、落城させる。
蒲生勢の陣備は一番 蒲生郷成・蒲生忠右衛門、二番 蒲生郷安・町野新三郎、三番 五手組・六手組・七手組、四番 寄組、五番? 弓鉄砲頭。
亥刻(21-23時)、伊達家家臣 須田伯耆が伊達政宗の謀叛を伝えに蒲生勢の陣所を訪れる。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 11月23日 35歳
木村吉清・清久親子を名生城(陸奥国)に迎える。
出典:『蒲生氏郷記』

天正18年 1590年 12月28日 35歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正19年 1591年 2月28日 36歳
千利休が切腹する。
出典:-

天正19年 1591年 7月19日 36歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:中島盛直、三枝守英柳沢信俊(大久保忠世勢)、折井次忠(大久保忠世勢)。
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同201「中島盛直」の項

天正19年 1591年 7月27日 36歳
徳川家康が白河(陸奥国)に在陣中であること、大森(陸奥国)にて豊臣秀次を待つことを、蒲生氏郷浅野長政に伝える。
出典:(天正19年)7月27日付徳川家康書状(『浅野家文書』58号)

天正19年 1591年 8月18日 36歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英、山高信直(大久保忠世勢)、青木信時(大久保忠世勢)、山寺信昌(大久保忠世勢)、山寺信光(大久保忠世勢)、柳沢信俊(大久保忠世勢)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 36歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 36歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

文禄1年 1592年 12月8日 37歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 3月10日 38歳
豊臣秀吉が牧使城攻めの軍勢を編成する。前田利家(軍勢7000)、蒲生氏郷(軍勢1500)、最上義光(軍勢300)、長谷川秀一(軍勢3000)、細川忠興(軍勢2000)、木村重茲(軍勢2000)、大谷吉継上杉景勝(軍勢5000)、蜂須賀家政(軍勢5000)、福島正則(軍勢3000)、戸田勝隆(軍勢2500)、中川秀成(軍勢2000)、小野木重次(軍勢600)、牧村政吉(軍勢400)、岡本重政(軍勢300)、糟屋武則(軍勢120)、高田治忠(軍勢180)、太田一吉(軍勢80)、片桐貞隆(軍勢120)、古田重勝(軍勢120)、新庄直定(軍勢180)、秋田実季(軍勢134)、本堂忠親(軍勢25)、大崎左衛門尉(軍勢10)、由利五人衆(軍勢88)の総勢37100。
出典:文禄3年3月10日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』263号)

文禄2年 1593年 閏9月13日 38歳
豊臣秀次蒲生氏郷に2000石を給付する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 10月5日 38歳
蒲生氏郷が参内する。禁裏で行われた能で「うのは」を舞う予定であったが日暮れによりならず。
出典:『駒井日記』同年月日・7日・8日条

文禄3年 1594年 4月14日 39歳
豊臣秀吉が伏見の蒲生氏郷邸を訪問する。
その後、秀吉は伏見城(山城国)を発ち大坂城(摂津国)に向かう。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄4年 1595年 2月7日 40歳
蒲生氏郷が死去する。
出典:『蒲生氏郷記』、『佐久間軍記』

慶長2年 1597年 11月17日 
伏見城(山城国)内にて豊臣秀吉が、前田利家織田有楽斎西笑承兌とともに閑談する。秀吉が金子70枚で針屋源十郎から購入した星肩衝、で購入した小肩衝、金森可重より進上のシリブクラの小壺、虚堂墨蹟(の若狭屋宗加→大友宗麟蒲生氏郷→秀吉)を見せる。虚堂墨蹟は承兌に賜う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

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