人 物 史

京極高次 きょうごく たかつぐ
生 没 年永禄6年(1563)-慶長14年(1609)5/3
出 身-幼 名-
別 称小法師
法 名-
戒 名泰雲寺殿徹宗道閑
京極高吉マリア(浅井久政の娘)
兄 弟 姉 妹京極高次京極高知、竜子、松雲院、朽木マグダレナ
配 偶 者初(浅井長政の娘)、山田氏の娘、小倉氏の娘
京極忠高、安毛高政
官 位若狭守、侍従、参議
役 職-
城 郭大津城(近江国)、小浜城(若狭国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ京極高次の関連文化財
京極高次 年表
永禄6年 1563年 -月-日 1歳
京極高次が生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 8歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀3年 1572年 -月-日 10歳
弟・高知が生まれる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 11歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正9年 1581年 9月3日 19歳
織田信長が伊賀国攻めを命じる。甲賀口より堀秀政を大将に小姓衆・近江衆の丹羽長秀蒲生氏郷京極高次多賀常則・山崎源太左衛門・阿閉貞征、伊勢口より北畠信雄滝川一益、南伊賀へは宇多郡衆、西より畑口から筒井順慶、黒田へ福住が攻め込む。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月10日 19歳
伊賀国を攻めている織田信雄の軍勢が同国内の寺社を焼き討ちする。滝川一益堀秀政が佐野具(伊賀国)より出勢した伊賀国衆の足軽と戦う。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月11日 19歳
佐野具城(伊賀国)に北畠信雄が入城する。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月15日 19歳
筒井順慶の伊賀国攻めの攻め口の諸城20ヶ所余が降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正17年 1589年 11月-日 27歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。京極高次は軍勢500で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

文禄1年 1592年 12月8日 30歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 -月-日 31歳
子・忠高が生まれる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 34歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 10月27日 35歳
豊臣秀吉京極高次邸を訪問する。茶の湯あり。早々に伏見城(山城国)に帰る。体調を悪くする。
出典:『鹿苑日録』・『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 10月28日 35歳
晩、京極高次西笑承兌徳川家康邸を訪れる。飯あり。そのついで上極の茶両種を喫す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月13日 35歳
徳川家康京極高次のもとを訪れる。足利義昭が所持していた肩衝を、高次が豊臣秀吉より拝領されたのをうけ見物に赴く。茶会の後書院にて饂飩、飯あり。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 4月4日 36歳
早朝、小早川秀秋大坂城(摂津国)を出立し、伏見城(山城国)に到着する。太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政竹中重利が秀秋に供奉する。豊臣秀吉をはじめ徳川家康福島正則前田利家前田利長、青木一矩、京極高次伊達政宗上杉景勝最上義光細川忠興結城秀康が秀秋を迎える。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長5年 1600年 1月11日 38歳
豊臣秀頼の名代として京極高次が参内する。前田玄以が付き添う。後陽成天皇に太刀1腰、馬代、銀50枚を進上し、親王に太刀、銀20枚を進上する。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』・『慶長日件録』同年月日条

慶長5年 1600年 6月18日 38歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 9月3日 38歳
京極高次石田三成方より徳川家康方に寝返り大津城(近江国)に籠城する。
出典:(慶長5年)9月7日付徳川家康書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号73)

慶長5年 1600年 9月11日 38歳
大津城(近江国)の京極高次を攻めるため立花宗茂毛利秀包が大坂(摂津国)より出陣する。
出典:『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)

慶長5年 1600年 9月12日 38歳
末次元康毛利秀包立花宗茂、筑紫広門、南条元忠、石川頼明、多賀秀種、吉川蔵人が京極高次の籠る大津城(近江国)を攻め、二ノ丸を落とす。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)

慶長5年 1600年 9月12日 38歳
末次元康毛利秀包立花宗茂立花直次、筑紫広門、南条元忠、石川頼明、多賀秀種、吉川蔵人が京極高次の籠る大津城(近江国)を攻め、二ノ丸を落とす。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)、『寛政重修諸家譜』巻第113「立花直次」の項目

慶長5年 1600年 9月13日 38歳
末次元康毛利秀包立花宗茂立花直次、筑紫広門、南条元忠、石川頼明、多賀秀種、吉川蔵人が京極高次の籠る大津城(近江国)本丸を攻める。
出典:慶長5年9月18日付毛利秀包感状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号75)、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原陣輯録』「大津の城落去の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)、『寛政重修諸家譜』巻第113「立花直次」の項目

慶長5年 1600年 9月14日 38歳
徳川家康が赤坂(美濃国)に着陣する。岡山を本陣と定める。
京極高次の大津城(近江国)が落ちる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月18日 38歳
加藤忠明・佃十成が籠る松前城(伊予国)を攻めるべく、三津浜(伊予国)に陣取っていた宍戸景好、曽根高房、木梨景吉、桂元将、村上元吉等率いる毛利勢を、十成が襲撃し、十成が勝利する。
加藤嘉明勢:加藤忠明、佃十成。
毛利輝元勢:宍戸景好、曽根高房(戦死)、木梨景吉、桂元将、村上元吉(戦死)。
出典:『関原陣輯録』「四国衆の留守を芸州勢取詰め候事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)

慶長8年 1603年 3月25日 41歳
巳下刻(10時)、徳川家康が参内する。結城秀康細川忠興池田輝政京極高次福島正則、松平忠良、松平飛騨守、松平清直、松平家清本多正純本多康紀本多忠勝石川康通井伊直継本多康俊板倉勝重、本多藤四郎、渡辺守綱、山上弥四郎、島田直時、鵜殿善六、横田弥五左衛門、高木九助、近藤秀用竹中重義森可澄、三好助三郎、三好可正、佐々木勝九郎、近藤政成、松平一生、戸田采女、内藤正成秋元泰朝松平正綱近藤季用大久保忠総、酒井主水、永井直勝三浦重成米津正勝、中山信吉、柴田左近、成瀬正成安藤直次、榊原甚五兵衛、横田尹松、日下部宗好、長谷川久五郎、阿部忠吉、豊島信満、林忠政、花井勝右衛門、伊奈忠政、加藤吉左衛門、高木善三郎、朝比奈弥太郎、石川康次、鳥井九郎左衛門、里見忠重、都築与右衛門が供奉する。将軍宣下の礼として禁裏に銀子1000枚を進上する。午下刻(12時)退出する。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長14年 1609年 5月3日 47歳
京極高次が死去する。
出典:-

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