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天正9年 1581年 3月15日
小井手城(越中国)を上杉景勝が攻めていることを聞いた織田信長が、不破光治前田利家原長頼金森長近柴田勝家にすぐに越前国へ帰国し救援するよう命じる。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 3月18日
羽柴秀吉浅野長政に播磨国揖東郡内にて香山上下1376石4斗、網干1255石、小宅荘堂本村591石1斗、小宅荘中村541石7斗および90石3升、727石4斗、松山阿曽村601石9斗、松尾村106石3斗、佐々村300石の合わせて5600石を給付する。
出典:天正9年3月18日付浅野長政知行目録(『浅野家文書』311号)

天正9年 1581年 3月22日
徳川家康岡部元信の籠る高天神城(遠江国)を攻める。徳川勢が元信を討ち取り、家康は高天神城を落とす。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、松平康元松平康次松平清宗松平康安小栗忠政、成瀬久次、渥美友勝、板倉定重(戦死)、岩瀬氏則(首級5)。
岡部元信勢:岡部元信[大将](戦死)。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第16「松平康次」の項、同21「松平清宗」の項、同26「松平康安」の項、同52「松平康元」の項、同81「板倉定重」の項、同961「渥美友勝」の項、同963「岩瀬氏則」の項

天正9年 1581年 3月24日
佐々成政が神通川・六道川を渡り、中田(越中国)に陣取る。小井手城(越中国)を攻めていた上杉景勝河田長親同城より撤退する。
長親が松倉城(越中国)にて死去する。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 3月25日
徳川家康高天神城(遠江国)を兵粮攻めにしているところ、城から逃亡者が出る。逃亡者に対し家康は攻撃を加え、本多忠勝は首級22を、榊原康政は首級40余をあげる。
出典:『信長公記』巻14(3)「高天神干殺し歴々討死の事」、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正9年 1581年 3月25日
矢部家定猪子高就が勝龍寺城(山城国)在番として入城する。城を預かっていた松井康之は家定・高就に城を渡し丹後国に向かう。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」、『綿考輯録』巻4

天正9年 1581年 3月28日
織田信長七尾城(能登国)の城代として菅屋長頼を遣わす。
出典:『信長公記』巻14(3)「高天神干殺し歴々討死の事」

天正9年 1581年 3月-日
佐久間盛政が不動島(加賀国)にて蜂起した一向衆を討ち取る。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 3月-日
諏訪原(遠江国)に出城を築く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠吉」の項

天正9年 1581年 4月4日
大乗院尋憲が京都より大乗院に戻る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 4月10日
織田信長が竹生島に参詣する。
出典:『信長公記』巻14(3)「高天神干殺し歴々討死の事」

天正9年 1581年 4月17日
権中納言に任官。
出典:『系図纂要』「鷹司家」

天正9年 1581年 4月21日
松倉城主・河田長親の死去につき、上杉景勝が松倉城(越中国)に楠川将綱・広居善右衛門尉を遣わすとともに、在番衆・河田九右衛門の加番として秋山定綱を遣わす。
出典:(天正9年)4月21日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2119号)

天正9年 1581年 4月29日
関白となる。
出典:『系図纂要』「一条」

天正9年 1581年 5月1日
筒井順慶春日社に参詣する。多聞院英俊のもとを訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 5月3日
従四位下に叙位。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正9年 1581年 5月9日
筒井順慶が奈良中の番匠全てを大和郡山城(大和国)に呼び寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 5月10日
織田信長の命により津田信澄蜂屋頼隆堀秀政松井友閑丹羽長秀の検分のもと槙尾寺を破却する。
出典:『信長公記』巻14(4)「和泉巻尾寺破滅の事」

天正9年 1581年 5月13日
越中国中郡の願関寺に寺崎喜六郎が籠城しているが攻め落としたとも噂されていること、増山(越中国)を焼き払ったこと、木船(越中国)は敵がまだ籠城していること、森山(越中国)は降伏したこと、井見庄小松倉を10日に焼き払ったことを黒金景信が斎木四郎兵衛尉に書状をもって伝え、上杉景勝に披露するよう願う。
出典:(天正9年)5月13日付黒金景信書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2124号)

天正9年 1581年 5月22日
5月20日に松倉城(越中国)に入城した上条宜順斎(政繁)が、黒金景信・楠川将綱・広居忠家とともに相談し越中の経営にあたることを樋口兼続に伝える。
出典:(天正9年)5月22日付上条宜順書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2129号)

天正9年 1581年 5月29日
柳川(筑後国)にて龍造寺隆信蒲池鎮漣が戦い、隆信が勝利する。鎮漣は戦死する。
出典:-

天正9年 1581年 5月-日
相馬義胤が亘理(陸奥国)に侵攻したことにともない、伊達輝宗政宗父子が応戦する(政宗の初陣)。
出典:『性山公治家記録』同年月条

天正9年 1581年 5月-日
細川藤孝の娘・伊也が一色義有に嫁ぐ。
出典:『綿考輯録』巻4

天正9年 1581年 6月2日
上条宜順斎(政繁)に越中国西部の情勢視察を命じられた黒金景信が、松倉城(越中国)に帰還する。
出典:(天正9年)6月3日付上条宜順書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2139号)

天正9年 1581年 6月3日
筒井順慶が大和郡山(大和国)にて吐田を切腹させる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 6月5日
北条氏政織田信長に馬3匹を贈る。取次は滝川一益
出典:『信長公記』巻14(4)「和泉巻尾寺破滅の事」

天正9年 1581年 6月11日
筒井順慶春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 6月11日
織田信長が寺崎盛永・喜六郎父子を越中国より呼び寄せ、丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に拘束する。
出典:『信長公記』巻14(4)「和泉巻尾寺破滅の事」

天正9年 1581年 6月15日
上杉景勝黒金景信に越中国西部の動静を伝えるように命じる。
出典:(天正9年)6月15日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2048号)

天正9年 1581年 6月15日
織田信長筒井順慶に吐田1000石ほどの所領を給付する朱印状を発給したのをうけ、順慶が信長のもとに礼に赴く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

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