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天正10年 1582年 3月2日
織田信忠が仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、森長可団忠正・毛利秀頼・川尻秀隆・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月2日
山科言経が父・言継の正忌につき松林院西堂、性心とともに斎をともにする。松林院西堂に50銭、性心に30銭を渡す。また、父の忌日につき花開院、誓願寺等にに参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 3月3日
本願寺顕如安土城(近江国)に遣わした藤井八郎左衛門が帰寺する。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 3月3日
筒井順慶織田信長の信濃国攻めに加わるため大和国衆を引き連れ出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 3月3日
山科言経村井春長軒のもとに礼に訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 3月3日
織田信忠が上諏訪(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月3日
卯刻(5-7時)、武田勝頼新府城(甲斐国)を自焼する。その後、小山田信茂を頼り、岩殿山城(甲斐国)を目指す。
出典:『信長公記』巻15(8)「武田四郎甲州新府退散の事」

天正10年 1582年 3月5日
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月6日
織田信長のもとに仁科盛信の首が届く。信長は岐阜城(美濃国)に入り、同城に宿泊。盛信の首を長良川の河原に架ける。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月7日
雨のため織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月7日
織田信忠が上諏訪(信濃国)より甲府(甲斐国)に入る。一条信龍邸に陣を据える。信忠は一条信龍、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒、海野龍宝に切腹を命じる。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月7日
織田勢が小尾周防守の籠る比企城(信濃国)を攻め、同城を落とす。小尾勢:小尾周防守(戦死)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第172「小尾周防守」の項

天正10年 1582年 3月8日
甲斐征伐のためこの日に出陣した織田信長のために禁裏において八幡宮法楽和歌が催される。参加者は青蓮院尊朝
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正10年 1582年 3月8日
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日
山科言経阿茶丸父子が因幡堂薬師に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 3月9日
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 3月11日
小島職鎮・唐人親広が指揮する一揆勢が、富山城(越中国)城主で主君の神保長住を攻め、城を乗っ取る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月11日
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日
上杉景勝織田信長の攻撃を受けている武田勝頼に上条宜順斎を遣わす。
出典:(天正10年)3月13日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2306号・2307号)

天正10年 1582年 3月13日
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 3月16日
武田信豊が小諸城(信濃国)の下曽根覚雲軒を頼り、同城に入城するも、覚雲軒の裏切りにより、城内にて攻められ、自害する。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月16日
織田信長のもとに武田勝頼、武田信勝、武田信豊の首が届く。
出典:『多聞院日記』同年月23日条

天正10年 1582年 3月17日
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月17日
羽柴秀吉が児島(備前国)を攻める。羽柴秀勝が初陣する。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

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