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天正10年 1582年 1月8日
本願寺顕如安土城(近江国)にいる織田信長へ年始の礼として八木駿河を遣わす。
御使として下間仲孝、寺内若狭を安土(近江国)に遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月8日
因幡堂の柳坊とその弟子が牛玉・香水を山科言経に贈る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月13日
大乗院尋憲織田信長のもとへ礼に赴くべく安土城(近江国)に向けて奈良を出立する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月13日
山科言経の妻と山科阿茶丸北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月15日
蒲生氏郷が左義長につき爆竹を北方東一番に行うよう命じられる。
出典:『信長公記』巻15(2)「御爆竹の事」

天正10年 1582年 1月16日
熊野(紀伊国)にて佐久間信盛が死去する。
出典:『信長公記』巻15(2)「御爆竹の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正10年 1582年 1月18日
大乗院尋憲が奈良(大和国)に帰る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月18日
鞍馬寺戒光坊が山科言経のもとを訪れ、牛玉札・巻数・山椒の皮・炭を贈る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月19日
式部大輔となる。
出典:『系図纂要』「東坊城」

天正10年 1582年 1月19日
権中納言となる。
出典:『系図纂要』「広橋」

天正10年 1582年 1月21日
革堂山科言経山科阿茶丸父子が参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月21日
父・直家の死去につき、重臣が織田信長のいる安土城(近江国)に赴き、秀家への家督相続を認めてもらう。
出典:『信長公記』巻15(2)「御爆竹の事」

天正10年 1582年 1月22日
岸和田城(和泉国)の織田信張より当春の礼として太刀1腰、鍬2懸、雁1、鱈5が贈られる。信張に返書を送る。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月23日
大乗院尋憲が大乗院において信読経を行う。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月23日
山科言経北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月24日
大乗院尋憲春日社に参籠する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月24日
南部晴継が死去する。
出典:『九戸戦記』

天正10年 1582年 1月25日
織田信長が伊勢御師 上部大夫から不足分は勧進で補うので正遷宮料1000貫文を寄進してほしいという願いをうける。信長は、一昨年に石清水八幡宮の造営を命じた際、300貫文で構わないと八幡宮より申請があったが、結局1000貫文を要したことをうけ、上部大夫のいう1000貫文では不足となり勧進に応じる民に負担をかけるだろうから3000貫文を寄進すると上部大夫に伝える。
出典:『信長公記』巻15(3)伊勢太神空上遷空の事

天正10年 1582年 1月25日
大乗院尋憲が大乗院にて毎月講を始める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月26日
山科言経が書状・筆1対を、言経の妻が書状・小扇子2本を、松尾兵部少輔の妻で言経の姉に遣わす。使者は頂妙寺門前の山伏。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月27日
雑賀衆の鈴木重秀が継父を殺害した土橋平次を織田信長の御意を得て殺害し土橋城(紀伊国)を攻める。その援軍として、根来衆と和泉衆が遣わされる。土橋の子息は弟・根来寺泉識坊とともに土橋城に立て籠もる。
出典:『信長公記』巻15(4)「紀伊州雑賀御陣の事」

天正10年 1582年 1月29日
本願寺顕如が藤井八郎左衛門を安土(近江国)にいる宮内のもとへ遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月1日
木曽義昌織田信長に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、菅屋長頼が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月2日
木曽義昌の謀叛につき武田勝頼が武田信豊とともに新府城(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月2日
太政大臣となる。
出典:『系図纂要』「近衛家」

天正10年 1582年 2月2日
山科言経が父・言継の忌日につき花開院、誓願寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月3日
武田勝頼木曽義昌を攻めるとの報を受け、織田信長は、徳川家康に駿河口からの侵攻を、北条氏政に関東口からの侵攻を、金森長近に飛騨口からの侵攻を命じる。また、織田信忠森長可団忠正を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月5日
初午につき山科言経が稲荷社に参詣する。その後、東福寺三十三間堂を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月6日
織田信長本願寺顕如の警固として野々村正成を遣わす。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正10年 1582年 2月6日
藤井八郎左衛門が鷺森に帰寺する。
織田信長本願寺顕如の警固として野々村正成を遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

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