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天正10年 1582年 2月6日
土橋城(紀伊国)に立て籠もっていた根来寺泉識坊が30騎を連れ城より逃亡するも、斎藤六大夫に討ち取られる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月7日
村井貞勝勧修寺晴豊織田信長が信濃国の半分を手に入れたと語る。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正10年 1582年 2月8日
根来寺泉識坊の首が安土城(近江国)に届けられ、安土城百々橋に置かれる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月9日
昨冬の「御縁辺之儀」について、本願寺顕如安土城(近江国)にいる織田信長へ八木駿河、円山内匠を遣わす。
鷺森の警固として野々村正成が到着する。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月9日
織田信長が信濃国出陣につき、筒井順慶を信濃国攻めに同伴すること、河内国衆は烏帽子山・高野山・雑賀衆に備えること、和泉国衆は紀伊国に遣わすこと、三好康長を四国に遣わすこと、摂津国は池田恒興が留守居としての残り、池田元助輝政兄弟、中川清秀は信濃国攻めに加わること、上山城衆は信濃国攻めに加わること、羽柴秀吉は中国地方の抑えとして残ること、細川藤孝忠興父子、一色五郎は丹後国に残ること、明智光秀は信濃国攻めに加わることを命じる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月10日
瑞泉寺が上杉家の要求を聞き入れたこと、飛騨国衆が昨年の冬から織田信長と手切れ状態であることから、上杉景勝から書状を発給してほしいこと、塩屋秋貞父子にも景勝の書状を発給してほしいこと、城尾(越中国)の斎藤信言が上杉家に寝返りたいとの旨を申し出ているためこちらにも景勝の書状を発給してほしいことを記した書状を黒金景信直江兼続に伝える。
出典:(天正10年)2月10日付黒金景信書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2272号)

天正10年 1582年 2月12日
織田信忠岐阜城(美濃国)を出陣し土田(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月13日
織田信張、鈴木重秀の軍勢2000が湊(紀伊国)に出陣する。
重秀の指示により本願寺顕如が信張に10種10荷の代2000疋を、根来在陣衆・和泉国国人衆に樽代を遣わす。使者は河野越中。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月13日
織田信忠が高野(美濃国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月14日
夜、三十三間堂が火災に遭う。
出典:『多聞院日記』同年月17日条

天正10年 1582年 2月14日
織田信忠が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より森長可団忠正が木曽峠、梨子野峠を越え飯田城(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月15日
森長可が市田(信濃国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月16日
鳥居峠にて今福筑前守と苗木久兵衛が戦う。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月18日
越中国の織田勢が安城(越中国)に500か600入城し、2、3日中に出撃するのではないかと黒金景信・楠川将綱が竹俣慶綱・小倉伊勢守・村山慶綱・斎藤朝信に伝える。
出典:(天正10年)2月18日付黒金景信・楠川将綱連署状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2278号)

天正10年 1582年 2月18日
山科言経冷泉為満清水寺に参詣する。清水茶屋、祇園茶屋にて為満の振る舞いを受ける。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月20日
武田勝頼上杉景勝に謀叛を起した木曽義昌の討伐に向かい苦戦している旨を伝えるとともに援軍を依頼する書状を発給する。
出典:(天正10年)2月20日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3660号、上杉家文書)

天正10年 1582年 2月20日
三好笑岩が讃岐国に入る。
出典:『南海通紀』巻14「阿州三好式部少輔生変記」

天正10年 1582年 2月21日
根来寺蓮華谷幸福院の児・千松丸(後に密千代と改名)が手習として青蓮院に入寺する。
出典:『華頂要略』巻13 門主伝24(『大日本仏教全書』)

天正10年 1582年 2月21日
山科言経阿茶丸父子が上御霊社、下御霊社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月23日
織田信張が根来寺付近の山口に帰陣する。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月23日
山科言経が、彼岸につき花開院に赴き、その後、誓願寺真如堂、阿弥陀寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月24日
本願寺顕如安土城(近江国)に帰る野々村正成に藤井八郎左衛門を添え遣わし、織田信長に礼を述べる。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月25日
山科言経北野社に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月26日
信濃国に向けて出陣する織田信長を見舞うため、大乗院尋憲安土城(近江国)に向けて出発する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 2月26日
彼岸につき、山科言経誓願寺等に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月28日
彼岸につき、山科言経誓願寺に参詣する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 2月28日
武田勝頼・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月1日
勧修寺晴豊誓願寺御経に赴く。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正10年 1582年 3月1日
山内(加賀国)の一向一揆を柴田勝家が鎮圧する。
出典:『鷺森日記』同年月5日条

天正10年 1582年 3月1日
織田信忠が小笠原信嶺を案内役として貝沼(信濃国)に陣取る。信忠は仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)の様子を検分する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

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