天正18年 1590年 8月23日 |
折井次忠が、4日に死去した父・折井次昌の遺領を相続する。徳川家康が次忠に武蔵国比企郡・児玉郡内にて800石の地を給付する。次忠は、このうち140石を弟・次吉に分知する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次忠」の項 |
天正18年 1590年 8月-日 |
北野社の観音堂が造立される。 |
出典:『北野社家日記』同年月日条 |
天正18年 1590年 8月-日 |
徳川家康が榊原康政に上野国邑楽郡・勢田郡、下野国簗田郡の100000石を給付し、館林城(上野国)に置く。あわせて康政の与力として、村上弥右衛門、原田種正、竹内広茂、瀧見九郎兵衛、鈴木重則、安松宗光等を付す。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」 |
天正18年 1590年 8月-日 |
徳川家康が近習・外様を五組に分け、その長を榊原康政、井伊直政、本多忠勝、平岩親吉、石川康通に補任する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項 |
天正18年 1590年 8月-日 |
徳川家康が松平信一に下総国相馬郡布川5000石を給付する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第7「松平信一」の項 |
天正18年 1590年 8月-日 |
徳川家康が柳沢信俊に鉢形(武蔵国)にて230石の地を給付する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第163「柳沢信俊」の項 |
天正18年 1590年 9月1日 |
豊臣秀吉が聚楽第(山城国)に帰城し、北条氏政・氏直攻めの軍勢を開陣する。 |
出典:『北野社家日記』同年月日条、『太閤さま軍記のうち』 |
天正18年 1590年 9月10日 |
磯野員昌が死去する。 |
出典:- |
天正18年 1590年 9月10日 |
徳川家康が、小笠原秀政に下総国古河30000石を、松平定勝に下総国香取郡小南にて3000石を給付する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項、同巻第54「松平定勝」の項 |
天正18年 1590年 9月10日 |
徳川家康が小笠原秀政に下総国古河30000石を給付する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項 |
天正18年 1590年 9月10日 |
徳川家康が松平定勝に下総国香取郡小南にて3000石を給付する。家康が定勝に伊東定政を付ける。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項 |
天正18年 1590年 9月15日 |
北条氏光が死去する。 |
出典:- |
天正18年 1590年 9月16日 |
北野社の鰐口を兵主(近江国)にて鋳る。 |
出典:『北野社家日記』同年月日条 |
天正18年 1590年 9月18日 |
巳刻(9-11時)、豊臣秀吉が毛利輝元邸を訪れる。供は聖護院道澄、今出川晴季、石田正澄。 |
出典:『天正十八年毛利亭御成記』(『続群書類従』第23輯下) |
天正18年 1590年 9月21日 |
応其、覚栄が三船神社を造替する。 |
出典:三船神社本殿棟札(和歌山県立博物館『没後四〇〇年 木食応其―秀吉から高野山を救った僧―」2008年10月) |
天正18年 1590年 9月-日 |
豊臣秀吉が池田輝政を岐阜城(美濃国)から吉田城(三河国)に移し、152000石を給付する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項 |
天正18年 1590年 10月17日 |
天桂院が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項 |
天正18年 1590年 10月22 - |
蒲生氏郷が葛西・大崎で一揆蜂起の噂を聞き、出撃の準備をするよう家中に申し触れる。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |
天正18年 1590年 10月26日 |
葛西・大崎一揆蜂起が事実であることを確認した蒲生氏郷が、鎮圧に向かうため、小倉孫作・関万鉄・蒲生左門・蒲生喜内・北川平左衛門を会津若松城(陸奥国)、の留守居とし、仙道に田丸直昌を置く。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |
天正18年 1590年 10月28日 |
蒲生氏郷が葛西・大崎一揆鎮圧のため先手を出撃させる。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |
天正18年 1590年 10月28日 |
小倉実明が駿府(駿河国)にて死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第398「小倉正庵」の項 |
天正18年 1590年 11月5日 |
蒲生氏郷が葛西・大崎一揆鎮圧のため会津若松城(陸奥国)を発ち猪苗代に陣を張る。 |
出典:『蒲生氏郷記』、『佐久間軍記』 |
天正18年 1590年 11月6日 |
大雨のため蒲生氏郷は阿子ヶ島に滞在する。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |
天正18年 1590年 11月7日 |
蒲生氏郷が二本松(陸奥国)に陣を張る。 葛西・大崎一揆鎮圧のため軍勢10000を率い陸奥国信夫郡鎌田・本折・杉ノ目に陣を張る。 二本松には伊達勢が到着していたが、伊達政宗に謀叛の噂があり心配した家臣から2、3日様子をみてはどうかと進言をうける。この進言に氏郷は腹を立て、政宗が謀叛を起こした場合は一戦を交えれば良いし、そのつもりで会津を発っていると覚悟をみせ、伊達勢よりも先に軍を進めるよう命じる。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |
天正18年 1590年 11月8日 |
蒲生氏郷が伊達領の大森城(陸奥国)に着陣する。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |
天正18年 1590年 11月16日 |
山中頼元が死去する。 |
出典:- |
天正18年 1590年 11月17日 |
蒲生氏郷が一揆勢の境である伊達領の黒川に着陣する。行程を相談するため伊達政宗のもとを訪れる。政宗に一揆勢の城が何ヶ所あり、木村吉清の籠る佐沼城までは何里かを尋ねる。また明日より高清水に押し寄せることを打ち合わせる。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |
天正18年 1590年 11月18日 |
蒲生氏郷が中新田城(陸奥国)に陣を張る。 伊達政宗が在々所々を放火。鹿間・中新田に進むが支えきれず退き七八町に陣を張る。 政宗は持病を発症したため明日からの攻撃を延期するように申し出るが氏郷は進軍する旨を政宗に伝え、氏郷勢の後より進軍するよう伝える。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |
天正18年 1590年 11月19日 |
蒲生氏郷、伊達政宗が名生城(陸奥国)を攻め、落城させる。 蒲生勢の陣備は一番 蒲生郷成・蒲生忠右衛門、二番 蒲生郷安・町野新三郎、三番 五手組・六手組・七手組、四番 寄組、五番? 弓鉄砲頭。 亥刻(21-23時)、伊達家家臣 須田伯耆が伊達政宗の謀叛を伝えに蒲生勢の陣所を訪れる。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |
天正18年 1590年 11月23日 |
木村吉清・清久親子を名生城(陸奥国)に迎える。 |
出典:『蒲生氏郷記』 |