人 物 史

折井次忠 おりい つぐただ
生 没 年永禄7年(1564)-慶長19年(1614)11/2
出 身-幼 名-
別 称昌勝、九郎次郎、市左衛門
法 名宗心
戒 名-
折井次昌青木信立の娘
兄 弟 姉 妹折井次忠、女(伊藤重次の妻)、女(坂本貞吉の妻)、女(曽雌定政の妻)、女(多田正長の妻)、折井次吉、女(小尾光重の妻)、女(曲淵正吉の妻)
配 偶 者青木信時の娘、山高信直の娘
娘(曽根孫右衛門の妻)、折井政次[養子]
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ-
折井次忠 年表
永禄7年 1564年 -月-日 1歳
折井次忠が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次忠」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次忠」の項

元亀1年 1570年 4月23日 7歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀4年 1573年 4月12日 10歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 10歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正10年 1582年 3月11日 19歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 6月2日 19歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 7月24日 19歳
徳川家康が樫山(甲斐国)に陣取る。折井次昌次忠父子、米倉忠継が同地にて家康を出迎える。家康は次昌・忠継に武川衆を指揮するよう命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次昌」の項、同巻第166「折井次忠」の項、同巻第169「米倉忠継」の項

天正11年 1583年 4月26日 20歳
徳川家康折井次忠に甲斐国有野・折井にて50貫文の地を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次忠」の項

天正17年 1589年 11月21日 25歳
徳川家康折井次忠に300石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次忠」の項

天正18年 1590年 2月10日 27歳
徳川家康豊臣秀吉小田原城(相模国)攻めにつき駿府城(駿河国)を出立し、賀島(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:渥美友勝、保科正直、保科正光、青木信時柳沢信俊、山高信直、折井次昌加藤正次秋鹿直朝鈴木信光小尾祐光津金胤久跡部久次酒依昌吉
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第174「酒依昌吉」の項、同965「秋鹿直朝」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正18年 1590年 3月1日 27歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 4月1日 27歳
豊臣秀吉が箱根山(相模国)に陣取る。小田原城(相模国)を包囲する。豊臣勢:池田輝政
出典:(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)

天正18年 1590年 4月2日 27歳
徳川家康が小田原(相模国)に着陣し、小田原城(相模国)の包囲に加わる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信時」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同250「保科正直」の項、同250「保科正光」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項

天正18年 1590年 8月4日 27歳
父・次昌が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次昌」の項

天正18年 1590年 8月23日 27歳
折井次忠が、4日に死去した父・折井次昌の遺領を相続する。徳川家康が次忠に武蔵国比企郡・児玉郡内にて800石の地を給付する。次忠は、このうち140石を弟・次吉に分知する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次忠」の項

天正19年 1591年 3月13日 28歳
櫛引清長が苫辺地城(陸奥国)を攻める。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 6月14日 28歳
九戸政実成敗につき、蒲生氏郷勢が二本松(陸奥国)に到着する。
出典:『九戸戦記』

天正19年 1591年 7月19日 28歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英鈴木信光柳沢信俊[大久保忠世勢]、折井次忠[大久保忠世勢]、山高信直[大久保忠世勢]、青木信時[大久保忠世勢]、山寺信昌[大久保忠世勢]、山寺信光[大久保忠世勢]、小尾祐光小尾光重津金胤久跡部久清
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同172「小尾祐光」の項、同173「津金胤久」の項、同173「跡部久清」の項、同201「中島盛直」の項、同1156「鈴木信光」の項

天正19年 1591年 8月18日 28歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同173「津金胤久」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 28歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 28歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

文禄1年 1592年 12月8日 29歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 33歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 35歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月1日 37歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重[大久保忠隣勢]、山寺信光、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」、同398「辻久吉」の項

慶長5年 1600年 9月7日 37歳
徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重(大久保忠隣勢)、木内蕃正[本多正信勢]、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」の項、同964「岩間正時」の項、同巻第964「木内蕃正」の項、同1043「神尾守世」の項

慶長8年 1603年 2月12日 40歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長9年 1604年 3月2日 41歳
徳川秀忠折井次忠に武蔵国男衾郡・大里郡内にて200石を給付し、次忠は総じて1000石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

慶長10年 1605年 4月16日 42歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長19年 1614年 11月2日 51歳
折井次忠が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次忠」の項

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.