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慶長19年 1614年 7月28日
佐野信吉が松本(信濃国)に向け、江戸(武蔵国)を発つ。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月1日
駿府城(駿河国)にいる徳川家康が、南光坊天海、以心伝心、東大寺衆、日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満、唐橋と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月2日
方廣寺大仏供養に天台宗僧(諸末寺衆)として多賀社の般若院・成就院・少納言・少弐が参加する。
出典:『大仏供養請僧惣名帳』(『大日本仏教全書』寺誌叢書三)

慶長19年 1614年 8月2日
中井正清駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の鐘の銘文を送る。銘文の筆者は東福寺(山城国)の清韓で、家康は「国家安康」の語をはじめ文章に不快感を示す。銘文の写しを作成し、徳川秀忠に送る。担当は林羅山
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月3日
徳川家康駿府城(駿河国)奥ノ間前の泉水について、島を築き池を掘って魚を放つように命じる。担当は諏訪部総右衛門。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月4日
中井正清より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに方廣寺(山城国)大仏殿の棟札写しがもたらされる。棟札執筆者は照高院道勝。家康は棟札の文章に不快感を示す。鐘の銘文についても、奈良の大仏の鐘銘になぞらえるようにと伝えたのに異なっていたこと、また豊臣秀頼が京都(山城国)に赴くならば、供奉の者を諸大夫に任官すべきと伝えたが、諸大夫の任官だけして秀頼の京行きは中止となったことに不審の念を示す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月5日
片桐且元より駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)大仏殿の鐘銘・棟札が到着する。4日に中井正清が提出したものと同文であることを確認する。家康は鐘銘の善悪を五山衆に問うべく、板倉重昌を京都(山城国)に遣わすこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月6日
未刻(13-15時)、江戸(武蔵国)にて大雨あり。
江戸城(武蔵国)石垣普請の浅野長晟の持ち場で石垣が崩れ、多くの人が死亡する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月7日
徳川家康が山崎宗鑑自筆『二十一代集』を日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満に見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月8日
板倉重昌が京都(山城国)に向けて駿府(駿河国)を出立する。
東大寺上生院が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面し、大仏の髪が傾いたので修復すべく、真柱を取り替え、諸国勧進をし、銅をもって鋳造することを訴える。家康はその訴えを承諾し、中井正清に修復工事を命じる。源頼朝が重源に遣わした自筆文書2通、『東大寺縁起』を上生院が家康に見せる。
小笠原秀政忠脩父子が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月9日
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「法華入実者、阿含之但空歟、方等之弾呵による歟」。精義は南光坊天海、月山寺、真光寺、法輪寺、日増院、実泉院。
徳川家康が尊応・栄雅の奥書がある『定家古今集』、逍遥院・称名院筆の『三代集』を冷泉為満等の公家衆に見せる。為満は『定家古今集』をみて不審の念を持つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月11日
南光坊天海徳川家康に天台仏法の奥儀を述べる。
畔柳寿学が家康に4尺ある鯛に似た大魚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月12日
駿府城(駿河国)にて、徳川家康山名禅高に両吟連歌を命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月13日
徳川家康が南蛮人の黒船の船頭と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月17日
徳川家康中井正清より提出された興福寺(大和国)南大門、法隆寺(大和国)の御持堂・聖霊院・法華堂の棟札写4通を見て、各棟札には大工名が入っているのに、方廣寺(山城国)大仏殿の棟札にはそれがないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月18日
板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月19日
片桐且元が駿府(駿河国)に到着する。
徳川家康方廣寺(山城国)鐘銘についての五山衆の批判文の写しを徳川秀忠に送る。林羅山が担当。
於大の13回忌として家康が銀100枚を増上寺(武蔵国)に送る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月20日
徳川家康以心崇伝本多正純方廣寺(山城国)に棟札・鐘銘がどこで食い違ったのか、また豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることについて不審の念を述べる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月24日
長崎(肥前国)より長谷川忠兵衛、茶屋清次駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、南蛮・唐人の商船が来航していることを報告する。家康より忠兵衛と清次にキリスト教徒追放のこと尋ねる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月25日
村上忠勝溝口宣勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康に謁見する。蝋燭を献上する。
木下熊之助が初めて家康に謁見する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月26日
駿府城(駿河国)広間にて能が催される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月27日
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「法華ノ弥陀、観経弥陀と同体か別体か」。精義は南光坊天海、講師は月山寺、薬樹院、真光寺、法輪寺、日増院、東光坊、法泉院。
飛鳥井雅庸が江戸(武蔵国)に赴くべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月28日
江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。伊達政宗前田利光の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。本多正純を交え、大坂城(摂津国)にて豊臣秀頼が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条

慶長19年 1614年 8月29日
夜、大蔵卿局が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月30日
徳川家康の使者として本多正純徳川秀忠のもとに赴くべく、駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月1日
公家衆が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に出仕する。
家康がオランダ人に謁見する。オランダ人は白糸2丸、龍脳2斤、丁子2嚢、大木綿、緞子を献上する。ヤン・ヨーステンが家康に対面する。家康に虎子2匹を見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月3日
駿府城(駿河国)三ノ丸にて能が催される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月4日
徳川家康が地謡役者に米20石を下賜する。担当は永井直勝
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「提婆権者か実者か」。精義は天海、講師は法輪寺・月山寺・真光寺・日増院・東光坊・法泉院・観音院。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月6日
駿府(駿河国)にて大雨あり、丑刻(1-3時)には地震が起こる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月6日
駿府城(駿河国)にて真言論義が行われる。題は「他作自受、他人のなす善根を自身に受るか否か」。講師は宝性院・如意輪寺・釈迦文院・俊長坊・覚証院・覚俊坊。
出典:『駿府記』同年月日条

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