慶長19年 1614年 9月7日 |
本多正純が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に戻る。徳川家康が片桐且元のもとに正純・金地院崇伝を遣わし、家康の意向として、豊臣秀頼から且元・片桐貞隆に知行給付するようすると伝える。断れば不義となることを且元兄弟に伝える。また、秀頼が家康・秀忠父子を調伏しているとの風説があることを伝える。大蔵卿局にも同じことを伝える。 舟橋秀賢の子が家康に継目の礼をする。秀賢の遺物である『三代実録』50巻を家康に献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月8日 |
徳川家康が南光坊天海、以心崇伝、宝性院、飛鳥井雅庸、冷泉為満に重陽の御服2領ずつを賜う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月8日 |
本阿弥光味が京都(山城国)にて死去する。 |
出典:『当代記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月8日 |
江戸城(武蔵国)石垣普請の黒田長政・浅野長晟の持ち場の石垣が崩壊する。 |
出典:『当代記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月9日 |
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城(駿河国)御書院に赴く。公家衆が出仕する。 徳川秀忠が使者として神尾守世が家康に重陽の御服5領を献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月9日 |
里見忠義が徳川秀忠のもとに出仕をしようとしたところ、秀忠の命により安房国からの国替えと大久保忠職のもとで謹慎するよう命じられる。大久保忠隣の改易処分に連座したものとされる。館山城(安房国)の接収のため、本多忠朝、内藤政長等が遣わされることが決まる。秀忠は忠朝・政長に忠義の家臣が城の明け渡しを拒むようなら、家臣を殺害してもかまわないとし、従うならば鹿島(常陸国)に移ること認めると指示する。 |
出典:『当代記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月11日 |
徳川家康が片桐且元、大蔵卿局に淀殿への伝達事項を伝える。 |
出典:『当代記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月12日 |
朝、片桐且元が上洛すべく駿府(駿河国)を発つ。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月13日 |
徳川家康が飛鳥井雅庸に暇を遣わす。銀30枚・綿200把を雅庸に賜う。 東大寺大仏殿(大和国)の修造について、上性院・清凉院が勧進の不足分の供出を家康に請う。家康は不足分の供出に応じる。 原胤信が関東より駿府(駿河国)に身柄を移送される。胤信は両手指を切り落とされ、額に焼印が入った状態で、キリスト教徒につき召し抱える者は許されざる者であると記した制札を添えて放逐される。担当は彦坂光正。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月14日 |
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河)に到着する。土井利勝が利勝の到着を密かに徳川家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月15日 |
駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康が南光坊天海と仏法の雑談をする。 諸侍が家康に出仕する。 幸若小八郎が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に到着する。家康の前で舞曲を舞う。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月16日 |
前田利光が駿府(駿河国)に到着する。午刻(11-13時)、駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに利光が礼をする。利光は黄金100枚・紅染絹200疋・白絹100疋を献上し、家康に対面する。家康は利光に太刀(銘 守家)・脇差(銘 長光)を賜う。本多正純が下賜物を伝達する。利光の家臣である奥村栄明・奥村栄頼が家康と対面する。服を献上する。 夜、家康が利光に継目の朱印状を発給する。正純、土井利勝が利光のもとに持参する。 家康が利光に、17日朝に徳川秀忠のもとに戻るよう命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月18日 |
池田利隆が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。普請の暇ができたため、播磨国に赴くべく家康に暇乞いをする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月18日 |
片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼・淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。 |
出典:『駿府記』同年月25日条 |
慶長19年 1614年 9月19日 |
徳川家康が板倉重昌に深津(三河国)で1500石を給付する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月20日 |
徳川家康が日善と対面する。 蒔田権佐が菓子を家康に献上する。 幸若小八郎が駿府城(駿河国)にて舞曲(文覚)を舞う。 江戸(武蔵国)より伊丹康勝・鎮目市左衛門が駿府(駿河国)に到着する。 大久保忠隣の娘婿・里見忠義が館山(安房国)より米子(伯耆国)に国替となる。本多忠朝・内藤政長が館山城(安房国)の請取に赴くこととなる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月23日 |
大坂城(摂津国)城内にて片桐且元・貞隆兄弟を殺害するとの風聞があったため、且元・貞隆が登城を控える。 |
出典:『片桐家秘記』、『駿府記』同年月25日条 |
慶長19年 1614年 9月24日 |
池田長吉が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第267「池田長吉」の項 |
慶長19年 1614年 9月24日 |
キリスト教徒100余人と高山重友、内藤如庵、長崎のキリスト教徒が、長崎(肥前国)より船にて出航し、天川(マカオ)に向かう。 |
出典:『駿府記』同年10月13日条 |
慶長19年 1614年 9月25日 |
佐竹義宣が江戸(武蔵国)へ向けて久保田城(出羽国)を出立する。 |
出典:『梅津政景日記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 9月25日 |
大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長、青木一重、石川貞政、薄田兼相、渡辺糺、木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。 且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。 |
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条 |
慶長19年 1614年 9月28日 |
石川貞政が妻子を引き連れ大坂城(摂津国)より大野に退く。貞政が片桐且元の縁者であるためとされる。 豊臣秀頼が且元の知行を改易する。大野治長・伏屋飛騨守の命によるとされる。 |
出典:『駿府記』同年10月7日条 |
慶長19年 1614年 9月29日 |
伏見(山城国)に居た井伊直孝の飛脚が彦根城(近江国)に到着し、大坂城(摂津国)攻めにつき、井伊勢は10月16日に彦根を出立し、21日には伏見城(山城国)に到着するようにと家中に伝える。 |
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
慶長19年 1614年 10月1日 |
板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長、青木一重、石川貞政、薄田兼相、渡辺糺、木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純・板倉重昌が徳川家康に報告する。 家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。 勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。 且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。 |
出典:『片桐家秘記』 |
慶長19年 1614年 10月2日 |
奥平忠政が死去する。 |
出典:『駿府記』同年月6日条、『当代記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 10月4日 |
徳川義利が名古屋(尾張国)に赴くべく、駿府(駿河国)を発つ。成瀬正成、竹腰正信の他、尾張衆数百名が供奉する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 10月4日 |
徳川秀忠が大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。 |
出典:『当代記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 10月5日 |
本願寺教如が死去する。 |
出典:- |
慶長19年 1614年 10月5日 |
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼が大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 10月6日 |
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。 江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。 江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。 奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |