慶長19年 1614年 6月24日 |
松平忠輝の使者として吉田が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、高田城(越後国)普請の進捗状況を報告する。 徳川秀忠の使者として青山重政が家康のもとに到着し御内書を渡す。家康より江戸城(武蔵国)石垣普請のことを尋ねられ応答する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 6月28日 |
舟橋秀賢が死去する。 |
出典:- |
慶長19年 1614年 6月-日 |
徳川家康の命により池田忠継と森忠政の娘が婚約する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項 |
慶長19年 1614年 7月1日 |
飛鳥井雅庸が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月3日 |
8月3日に方廣寺大仏殿の大仏開眼供養が行われ、導師は仁和寺門跡であるとの勅諚が出たことを、金地院崇伝が徳川家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月7日 |
徳川秀忠の使者・水野忠元が七夕の祝儀として駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き帷子5領を進上する。家康より江戸城(武蔵国)普請のことを尋ねられる。 豊臣秀頼の使者として山口左馬允が家康のもとを訪れ、七夕の祝儀として黄金10枚を贈る。また左馬允からの進物として紫皮10枚・太刀・馬を家康に献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月8日 |
南光坊天海が徳川家康に方廣寺(山城国)の大仏開眼供養のことについて、仁和寺門跡が出仕することへの異論を訴える。家康は以心崇伝を介し片桐且元に、近年の事例ではなく聖武天皇や源頼朝の時代の例を調べるよう命じる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月9日 |
徳川家康が飛鳥井家系図と歌道宗匠日記を閲覧する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月10日 |
飛鳥井中納言が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。飛鳥井は定家歌書を家康に見せ、歌道の雑談をする。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月12日 |
三好房一が死去する。 |
出典:『駿府記』同年月13日条 |
慶長19年 1614年 7月12日 |
蒲生郷成が須賀川(陸奥国)にて死去する。 |
出典:『当代記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月13日 |
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、前田利長の隠居領である能登国160000石について、前田利光に給付すべきか否か相談する。家康は前田家家老の前田長種、水原新左衛門、奥村栄頼、本多政重を呼び、利光の妻である珠に30000石を給付すること、利光は若年によりよくよく後見するようにと命じる。家老衆は感涙し退出する。家老衆はそれぞれ家康に加賀絹50疋を献上する。また、利長の遺物である脇差(銘 不動正宗)・刀(銘 備前三郎)を家康に献上する。本多正純が披露する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月14日 |
延暦寺の代僧として五智院が駿府(駿河国)より江戸(武蔵国)に赴く。毛利輝元が寄進した一切経を仙波に移す。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月14日 |
徳川秀忠が父・家康に定家自筆『伊勢物語』を贈る。土井利勝が持参する。林羅山は家康に読み聞かせをする。この本は後土御門天皇の御物で、畠山義総、三好長慶と伝わり、三好家没落後は堺(和泉国)にあったが、細川藤孝が入手し、松平忠吉が藤孝に所望して入手し、忠吉没後は秀忠に進上されたものとされている。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月14日 |
駿府城(駿河国)城内の竹腰正信邸が焼失する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月15日 |
徳川家康が日野唯心、飛鳥井、冷泉に定家自筆『伊勢物語』を見せる。 土井利勝が江戸(武蔵国)に戻るべく駿府(駿河国)を発つ。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月16日 |
冷泉為満が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に定家自筆『三十六歌撰』1冊を見せる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月17日 |
織田信包が大坂(摂津国)にて死去する。 |
出典:『当代記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月17日 |
午刻(11-13時)、駿府(駿河国)にて風雨があり、夜、風が強くなる。 仙石忠政が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に父・秀久死去につき、継目の礼をする。銀100枚・絹50疋・帷子・単物10領、秀久遺物として金100枚・脇差(銘 長光)・茶壺を献上する。本多正純が披露する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月18日 |
京都(山城国)の板倉勝重・片桐且元より以心崇伝をもって駿府城(駿河国)にいる徳川家康に方廣寺(山城国)の大仏開眼供養について報告がある。8月3日の朝、仁和寺門跡を導師とし、日中の供養は天台宗を左座とすること、鷹司が大仏殿に着座し、公家衆は堂内に着座することなどを伝える。なお、頼朝時代の開眼供養について、家康が『吾妻鑑』を読ませる。 多武峰(大和国)が崩れ、大織冠社檀が破損したこと、ただし藤原鎌足像は無事で他所に移したことを崇伝と竹林坊が家康に報告する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月19日 |
島津家久の使者が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、染絹100疋・琉球酒2壺を献上する。 島津維新斎の使者が家康のもとに到着し、緋緞子20巻・香1箱を献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月20日 |
飛鳥井中納言が新歌撰写を家康に献上する。 谷衛友が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。江戸(武蔵国)詰めのため家康が衛友に暇を下す。本多正純が披露する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月20日 |
結城晴朝が死去する。 |
出典:- |
慶長19年 1614年 7月21日 |
飛鳥井中納言が徳川家康に『源氏物語』を講釈する。 駿府城(駿河国)数寄屋にて家康が近習4、5人と金地院崇伝、板倉重昌を召し、方廣寺(山城国)の鐘の銘文が「関東不吉」であると述べたうえで、上棟式の日程についても吉日ではないとして立腹する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月23日 |
成瀬正虎・之成兄弟が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に到着する。父・正成が病のため駿府に詰める。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月24日 |
徳川秀忠の使者として成瀬正武が駿府(駿河国)に到着する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月25日 |
徳川秀忠の使者として成瀬正武が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月26日 |
南光坊天海が徳川家康に天台血脈を伝授する。 片桐且元と板倉勝重の書状が家康のもとに届く。内容は方廣寺大仏供養は8月3日、開眼供養は8月18日にするようにとの家康の指示だが、18日は豊国臨時祭のため3日に開眼供養を開催したいと豊臣秀頼が述べていたことを伝える。家康はこの返事として、大仏供養のことについて棟札の記載と鐘の銘文に立腹していることを伝え、頼朝時代には大仏開眼と堂供養は分けて実施しているので先例に倣うようにと本多正純・金地院崇伝をして伝えさせる。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |
慶長19年 1614年 7月27日 |
南光坊天海が駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康に天台法問の伝授をする。 成瀬正武が江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。 家康が『晋書』、『玉海』、『朱子大全』、『大学衍義補』、『二程全書』、『文章弁礼』、『文章正宗』、『李白詩集』、『東莱南軒集』等の書籍30冊を江戸に送る。いずれも江戸の文庫に無い書籍で、林羅山が移送を担当する。 家康が佐野信吉の所領を改易する。信吉の兄・富田信高が勘気を蒙り所領改易となったことの連座とされる。信吉の身柄は小笠原秀政が預かる。 |
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項 |
慶長19年 1614年 7月28日 |
小笠原政信が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。帷子10領・銀100枚を献上する。 |
出典:『駿府記』同年月日条 |