人 物 史

神尾守世 かみお もりよ
生 没 年天正2年(1574)-寛永10年(1633)8/24
出 身-幼 名-
別 称久宗、五兵衛、五兵衛尉
法 名浄叟
戒 名-
神尾忠重阿茶局(飯田筑前守の娘)
兄 弟 姉 妹神尾守世、神尾守繁
配 偶 者尾関定綱の娘
神尾守勝、神尾守重、神尾守政、娘(遠山長景の妻)、娘(井上宇右衛門の妻)、娘(菅沼定政の妻)、娘
官 位刑部少輔
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる神尾守世の呼称
神尾守世 年表
天正2年 1574年 -月-日 1歳
神尾守世が生まれる。
出典:-

天正11年 1583年 -月-日 10歳
浜松(遠江国)にて神尾守世徳川秀忠に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1043「神尾守世」の項

文禄1年 1592年 12月8日 19歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 23歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 25歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月1日 27歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重[大久保忠隣勢]、山寺信光、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」、同398「辻久吉」の項

慶長5年 1600年 9月4日 27歳
徳川秀忠の軍勢が小諸城(信濃国)に到着する。
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」

慶長5年 1600年 9月5日 27歳
徳川秀忠真田昌幸の持ち城である砥石城(信濃国)を占拠し、真田信幸を入れ置く。
出典:(慶長5年)9月5日付徳川秀忠書状(『浅野家文書』112)

慶長5年 1600年 9月7日 27歳
徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠[大久保忠隣勢]、柳沢信俊[大久保忠隣勢]、山高親重(大久保忠隣勢)、木内蕃正[本多正信勢]、辻久吉、朝倉宣正、斎藤信吉、中山照守、戸田光正、小野忠明、鎮目惟明、太田吉正、跡部久清
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同173「跡部久清」の項、同964「岩間正時」の項、同巻第964「木内蕃正」の項、同1043「神尾守世」の項

慶長8年 1603年 2月12日 30歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 32歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長17年 1612年 2月12日 39歳
江戸(武蔵国)より徳川秀忠の使者として神尾守世徳川家康のもとに訪れる。
家康が日野唯心、円光寺、以心崇伝に膳を賜い、雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月13日 39歳
徳川秀忠駿府城(駿河国)に居る徳川家康と天下政務について相談すべく、江戸城(武蔵国)を出立する。藤沢(相模国)に到着する。供奉は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝、青山忠成、山口重政神尾守世水野忠元、井上正就等。
出典:『駿府記』同年月日・17日条

慶長17年 1612年 3月14日 39歳
徳川秀忠小田原城(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月15日 39歳
徳川秀忠が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月16日 39歳
徳川秀忠が清水(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月17日 39歳
辰刻(7-9時)、徳川秀忠駿府城(駿河国)西丸に到着する。供奉は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝、青山忠成、山口重政神尾守世水野忠元井上正就等。午刻(11-13時)、秀忠が駿府城の本城に赴き、父・家康と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月4日 39歳
徳川秀忠の使者として神尾守世駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに赴き、端午の節句として帷子5領を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月7日 40歳
徳川秀忠の重陽を祝す使者として神尾守世が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月9日 40歳
徳川秀忠の重陽を祝す使者・神尾守世徳川家康に服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月23日 40歳
越谷(武蔵国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠の使者として神尾守世が赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月9日 41歳
巳刻(9-11時)、徳川家康駿府城(駿河国)御書院に赴く。公家衆が出仕する。
徳川秀忠が使者として神尾守世が家康に重陽の御服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月27日 42歳
神尾守世が焼火間の番頭となる。従五位下・刑部少輔に叙位・任官する。より上総国・下総国内にて加増を受け、計3010石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1043「神尾守世」の項

慶長20年 1615年 2月7日 42歳
徳川秀忠が中泉(遠江国)に到着する。徳川家康、秀忠、本多正信本多正純で密談をする。後に、この密談に土井利勝が加わる。秀忠の退出後、家康は供奉の近習衆とひとりずつと対面する。対面した供奉衆は、酒井忠世土井利勝本多正信本多正重安藤重信水野忠元井上正就神尾守世、小山吉久、青山忠俊
午刻(11-13時)、秀忠が中泉を出立し、申刻(15-17時)、掛川(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月21日 42歳
辰刻(7-9時)、徳川秀忠が施薬院宗伯の邸宅に入る。宗伯が秀忠に膳を献じる。徳川義俊徳川頼宣が秀忠とともに宗伯邸に入る。秀忠は宗伯に黄金10枚・帷子10領を賜う。広橋大納言、三条大納言が、院使の阿野実顕が秀忠のもとに参る。巳刻(9-11時)、秀忠が参内する、後水尾天皇に銀1000枚を献上する。秀忠に義俊、頼宣、松平忠直伊達政宗井伊直孝藤堂高虎、吉良義弥、酒井家次酒井忠世土井利勝安藤重信、本多正勝、本多忠純、青山忠俊、内藤清次、水野忠元井上正就、酒井忠正、鳥居讃岐守、神尾守世、青山幸成、松平清正本多忠政戸田氏鉄、飛鳥井、冷泉、六条、烏丸中納言、広橋弁、山科、難波、烏丸弁。
午下刻(12時)、秀忠は院参する、後陽成上皇に銀300枚・綿500把を、女院に銀100枚・綿300把を献上する。未刻(13-15時)、秀忠は宗伯邸に戻り、伏見城(山城国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 42歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月17日 42歳
徳川秀忠の使者として神尾守世駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに訪れる。家康が鷹狩と称し関東に赴くことを謝すための使者。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月25日 42歳
徳川秀忠の歳末の使者として神尾守世駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 43歳
徳川家康が死去する。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 51歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永9年 1632年 1月24日 59歳
徳川秀忠が死去する。
出典:-

寛永10年 1633年 8月24日 60歳
神尾守世が死去する。
出典:-

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