人 物 史

准如 じゅんにょ
生 没 年天正5年(1577)7/9-寛永7年(1630)7/24
出 身摂津国大坂
俗 姓(氏)大谷俗 名阿茶丸、光昭
別 称-
院 号 坊 号理光院
顕如如春尼(三条公頼の娘・細川晴元の娘)
兄 弟 姉 妹教如顕尊准如
配 偶 者准勝(寿光院 祇園宝光院の娘)
良如
所 属 寺 社本願寺[住持]
僧 位 僧 官大僧正、法印
諡 号-
師 匠顕如
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
准如 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
天正5年1577791准如が生まれる。-
天正6年1578442織田信長が、織田信忠を大将とし、北畠信雄織田信包神戸信孝津田信澄明智光秀滝川一益蜂屋頼隆丹羽長秀を加えた大坂本願寺攻めの軍勢を編成する。『信長公記』巻11(5)「相撲の事」
天正6年1578452織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。『信長公記』巻11(5)「相撲の事」
天正6年1578462織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。『信長公記』巻11(5)「相撲の事」
天正6年1578482織田信忠大坂本願寺より京都に帰陣する。『兼見卿記』同年月日条
天正6年15786262九鬼嘉隆が大船7艘を熊野浦に出す。大坂へと回漕中、淡輪の海上にて大船の行く手を阻むべく、雑賀・淡輪浦の小船が嘉隆の大船を襲撃するが、九鬼の大船が大鉄砲にて小船を一掃。以後、九鬼への襲撃が止む。『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」
天正6年15787172九鬼嘉隆が率いる大船7艘がに着岸。見物人を驚愕させる。『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」
天正6年15787182九鬼嘉隆が率いる大船7艘が大坂へと出航。海上に留まり、大坂本願寺への海路を封鎖する。『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」
天正6年15787202浦に伊勢から5000を乗船した大船が到着する。幅7間、長さ12-13間の「鉄ノ船」で「テツハウ」を通さない作り。大坂本願寺の通路を遮断するためという。『多聞院日記』同年月日・21日条
天正6年15781162毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正7年15799293天王寺にて、織田信長勢と大坂本願寺の一向一揆勢が戦う。『多聞院日記』同年10月6日条
天正8年15802204織田信長大坂本願寺を攻めるため上洛する。妙覚寺に宿泊する。『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」
天正8年1580824大坂本願寺に籠城を継続していた教如織田信長に同寺を明け渡す。勅使として近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が、信長からの使者として松井友閑佐久間信盛矢部家定が大坂本願寺に赴く。教如は雑賀(紀伊国)に移る。この日の夜、大坂本願寺が焼ける。『多聞院日記』同年月5日条、『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」
天正13年1585549羽柴秀吉が天満本願寺の縄張り打ちをする。敷地は中嶋天満宮の会所から東の河際までの7町、北へ5町で、大坂本願寺より広大となる。『宇野主水記』同年月日条
天正13年15857119羽柴秀吉への関白宣下が行われる。『兼見卿記』同年月日条
天正13年15858309羽柴秀吉より寺地として得た中島(摂津国)に本願寺(天満本願寺)を移転する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年15859149羽柴秀吉が有馬(摂津国)に湯治のため向かう途中、天満本願寺に立ち寄る。石田三成増田長盛大谷吉継千抛筅斎施薬院全宗今井宗久、今井宗薫等が随従する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年15859239本願寺顕如が湯治に赴く。子・准如下間頼廉、宇野主水が随従する。『宇野主水記』同年月日条
天正13年15851089本願寺顕如が湯治より天満本願寺に帰寺する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15864310本願寺顕如が湯治のため十津川(大和国)に赴くべく、天満本願寺を出立する。今井(大和国)に逗留する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15864510本願寺顕如が下市(大和国)に赴く。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15864610本願寺顕如が下市(大和国)を発つ。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15864810本願寺顕如が十津川(大和国)に到着する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年158642710本願寺顕如が十津川(大和国)より天満本願寺に帰寺する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15866110天満本願寺の地築が始まる。『宇野主水記』同年月日条
天正14年15866410天満本願寺の地築につき石を据える。『宇野主水記』同年月日条
天正14年158662610天満本願寺の御影堂柱立が始まる。『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年158662810天満本願寺の御影堂棟上が行われる。『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年158671910天満本願寺の御影堂棟上式が行われる。『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年15868310親鸞木像を天満本願寺の阿弥陀堂から御影堂に移徙する。『西光寺古記』「西光寺古記二十五」「天正十四年丙戌天満宮御堂」
天正14年158681910天満に造営した興正寺の御堂の棟上が行われる。『宇野主水記』同年月日条
天正14年158692810湯治のため、本願寺顕如、顕如の妻・如春尼、子・准如が有馬(摂津国)に赴く。『宇野主水記』同年月日条
天正14年1586101410有馬(摂津国)に湯治に赴いていた本願寺顕如、顕如の妻・如春尼、子・准如が天満本願寺に帰寺する。『宇野主水記』同年月日条
天正14年1586112710本願寺顕如が痢病を患い通仙院に逗留する。『宇野主水記』同年月日条
天正19年159112215本願寺顕如、如春尼、教如准如興正寺顕尊の饗応を受ける。『言経卿記』同年月日条
天正19年15912315天満本願寺の御堂において准如が得度する。『言経卿記』同年月日条
天正20年15922-16本願寺(京都六条)の釿始が執行される。『紫雲殿由縁記』
天正20年1592111816本願寺(京都六条)にて移徙供養が執行される。『紫雲殿由縁記』
天正20年1592112416報恩講の期間中、父・顕如が中風により死去する。『大谷嫡流実記』「顕如」の項
文禄1年1592121016七条東河原にて顕如の葬礼が行われる。『大谷嫡流実記』「顕如」の項
文禄1年1592122516顕如の遺骨が大谷本願寺の旧地に納骨される。『大谷嫡流実記』「顕如」の項
文禄2年1593閏91517本願寺教如大坂城(摂津国)に到着する。施薬院全宗長束正家、山中長俊が豊臣秀吉の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、織田信長にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・顕如から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を准如に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。『駒井日記』同年月16日条
文禄2年1593閏91617豊臣秀吉が本願寺の住持職について、譲状に基づき、本願寺教如を退け、弟・准如に相続させるよう命じる。『駒井日記』同年月日条・同年月17日条
文禄2年1593101317豊臣秀吉豊臣秀次より本願寺准如のもとに上使がやってくる。3献にて応対する。『文禄二年十月ヨリノ日次記』同年月日条
文禄2年1593111217豊臣秀吉下間頼廉を赦免する。『文禄二年十月ヨリノ日次記』同年月日条
文禄2年1593111417下間頼廉本願寺准如の家督相続の礼をする。『文禄二年十月ヨリノ日次記』同年月日条
文禄2年1593111817本願寺准如下間頼廉を奏者役に命じる。『文禄二年十月ヨリノ日次記』同年月日条
文禄2年159312317増田長盛本願寺准如にもとにえなみ助直を遣わす。『文禄二年十月ヨリノ日次記』同年月日条
文禄4年159511319権少僧都に任じられる。『紫雲殿由縁記』
文禄4年159512919権僧都に任じられる。『紫雲殿由縁記』
文禄4年1595122519権僧正に任じられる。『紫雲殿由縁記』
慶長2年159751721伏見城(山城国)において豊臣秀吉秀頼父子に対する年頭・移徙の礼が行われる。勅使をはじめ、八条宮智仁親王、伏見宮邦房親王、九条兼孝一条内基二条昭実近衛信輔鷹司信房、九条忠栄、徳川家康以下諸大名、近衛前久照高院道澄、妙法院常胤、三宝院義演、大覚寺宮空性、聖護院興意、梶井宮最胤、曼殊院覚円、一乗院尊政、大乗院義尋、本願寺准如が参列する。『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条
慶長3年159811622母・如春尼が死去する。「西光寺古記 三十二 慶長三年如春法尼送終記」
慶長3年159881822豊臣秀吉が死去する。『当代記』巻3同年月日条
慶長5年160091524関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜
慶長9年160492628本願寺准如が参内する。
九条忠栄邸にて振舞を受ける。
『慶長日件録』同年月日条
慶長9年160410228山科言緒舟橋秀賢が西本願寺に訪れる。『慶長日件録』同年月日条
慶長14年16097533長男の阿茶丸が死去する。『西光寺古記』「西光寺古記三十四」「慶長十四己酉七月五日、御児様御往生之記」
慶長19年1614121138本願寺准如の使者として下間仲孝徳川家康にもとに赴き小屏風を献上する。『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」
寛永3年162641550子・茶々丸が得度し、法号を良如、諱を光円と名乗る。『紫雲殿由縁起』(『真宗全書』36巻p351)
寛永7年163072454本願寺准如が死去する。-
寛文2年16622--顕如准如の墓が大谷本廟の左右に築かれる。『紫雲殿由縁記』
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