人 物 史

一条内基 いちじょう うちもと
生 没 年天文17年(1548)-慶長16年(1611)7/2
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
一条房通
一条兼冬[養父]
-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
一条昭良[養子]
官 位権中納言、左近衛中将、権大納言、内大臣、右大臣、左大臣、関白
氏 族 門 流-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
一条内基 年表
天文17年 1548年 -月-日 1歳
一条内基が生まれる。
出典:『系図纂要』「一条」

弘治1年 1555年 10月23日 8歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 11歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄4年 1561年 8月24日 14歳
権中納言となる。
出典:『系図纂要』「一条」

永禄8年 1565年 12月21日 18歳
山科言継一条内基を訪れ、東寺本願 賢広から依頼のあった土佐国での勧進裁許を申請する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 12月29日 18歳
権大納言となる。
出典:『系図纂要』「一条」

永禄13年 1570年 3月4日 23歳
一条内基山科言継織田信長の京の宿泊地を訪れる。しかし、信長は頭痛のため伏しており、対面できず。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月5日 23歳
一条内基山科言継織田信長の京の宿泊地を訪れ、銭30疋を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 23歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 26歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 11月14日 28歳
内大臣となる。
出典:『系図纂要』「一条」

天正4年 1576年 5月2日 29歳
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月21日 29歳
右大臣となる。
出典:『系図纂要』「一条」

天正5年 1577年 11月20日 30歳
左大臣となる。
出典:『系図纂要』「一条」

天正7年 1579年 11月22日 32歳
織田信長が誠仁親王を猶子とし、二条御新造に住まわせる。この移徙に際し、近衛信基九条兼孝一条内基二条昭実鷹司信房が二条御新造に先入りする。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻12(16)「親王様、二条御新造へ行啓の事」

天正9年 1581年 4月29日 34歳
関白となる。
出典:『系図纂要』「一条」

天正10年 1582年 6月2日 35歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正13年 1585年 閏8月26日 38歳
羽柴秀吉施薬院全宗のもとで茶湯を催す。全宗の所に近衛龍山大覚寺尊信大乗院尋憲一条内基、梶井宮最胤、飛鳥井雅春、日野輝資、烏丸光宣、吉田兼見が参礼として訪れる。龍山等が秀吉に進上した菓子を前田玄以が披露する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正16年 1588年 4月16日 41歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「相生の 松の縁も けふ更に いく千代ふべき 色もみすらむ」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

文禄1年 1592年 12月8日 45歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 2月6日 46歳
正親町上皇が崩御する。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 49歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 5月17日 50歳
伏見城(山城国)において豊臣秀吉秀頼父子に対する年頭・移徙の礼が行われる。勅使をはじめ、八条宮智仁親王、伏見宮邦房親王、九条兼孝一条内基二条昭実近衛信輔鷹司信房、九条忠栄、徳川家康以下諸大名、近衛前久照高院道澄、妙法院常胤、三宝院義演、大覚寺宮空性、聖護院興意、梶井宮最胤、曼殊院覚円、一乗院尊政、大乗院義尋、本願寺准如が参列する。
出典:『義演准后日記』・『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 8月18日 51歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 2月19日 55歳
摂関家の九条兼孝一条内基二条昭実鷹司信房、門跡の妙法院常胤、三宝院義演、梶井宮承快、青蓮院尊純、随心院増考、伏見宮邦房の名代・庭田重定、覚深の名代・亮淳とともに徳川家康に礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 56歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長9年 1604年 閏8月10日 57歳
勅使の広橋兼勝勧修寺光豊徳川家康のもとを訪れ、後陽成天皇が緞子10巻を、親王が焼物を家康に贈る。摂関家の関白・一条内基、前関白・二条昭実九条忠栄、鷹司信尚、門跡の照高院道澄、妙法院常胤、梶井宮最胤、随心院増孝、一乗院尊政が家康のもとに礼に訪れる。ついで堂上公家衆の大炊御門経頼、大炊御門頼国、烏丸光宣、万里小路充房、高倉永孝、飛鳥井雅庸、花山定好、西洞院時直が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 10月10日 57歳
禁裏にて能を催す。大夫は下間仲孝。後陽成天皇、女院、妙法院常胤、聖護院興意、八条宮智仁親王、近衛信尹一条内基、鷹司信尚、万里小路充房、万里小路兼房、山科言経山科言緒持明院基孝、持明院基久、中院通勝、勧修寺光豊、白川雅朝、白川顕成、高倉永高、高倉永慶、鷲尾隆尚、水無瀬氏成、水無瀬兼俊、五辻兼俊、阿野実顕、四辻季継、富小路秀直、猪熊教利、平時直、難波宗勝、小川坊城俊昌、飛鳥井雅賢、滋野井冬隆、甘露寺豊長、中御門宣衡、高倉嗣良、竹内孝治、藤波種忠、舟橋秀賢が参会する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 58歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長16年 1611年 7月2日 64歳
一条内基が死去する。
出典:『系図纂要』「一条」

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