地 名 の 歴 史

阿波国[国] あわのくに
初 見-
阿波国
阿波郡、麻殖郡、板野郡、名東郡、名西郡、美馬郡、三好郡、勝浦郡、那賀郡、海部郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社-
寺 院-
城 郭阿波国の城郭
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
阿波国[国] 年表
大永3年 1523年 4月9日 
撫養(阿波国)にて足利義稙が死去する。位牌は相国寺恵林院に安置される。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」、『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

永禄5年 1562年 3月5日 
久米田(河内国)にて畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 3月6日 
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄7年 1564年 7月24日 
三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

元亀4年 1573年 7月16日 
三好長治の命を受けた十河存保が篠原長房の居城の上桜城(阿波国)を攻める。長房は応戦するも、敗れて自害する。
三好長治勢:十河存保[大将]、植松帯刀(篠原長重討取)。
篠原長房勢:篠原長房[大将](自害)、篠原長重(戦死)。
出典:『南海通紀』巻10「阿州河島合戦記」

天正1年 1573年 11月-日 
織田信長の命をうけた佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)、『綿考輯録』巻2

天正1年 1573年 11月-日 
佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川
義継家臣の多羅尾右近・池田教正・野間佐吉が信盛に内通し、金山武春を殺害して、若江城(河内国)城内に織田勢を引き入れる。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正1年 1573年 11月16日 
若江城(河内国)にて三好義継が自害する。那須久右衛門、岡飛騨守、江川が殉死する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正5年 1577年 3月28日 
別宮(阿波国)にて三好長治が一宮成助、井沢頼俊の軍勢2000に包囲され、辰刻(7-9時)自害する。
出典:『南海通紀』巻11「三好長治滅亡記」

天正14年 1586年 5月22日 
蜂須賀正勝が死去する。
出典:『系図纂要』「蜂須賀家」

慶長18年 1613年 5月2日 
米津正勝の下代の不行儀により、正勝が阿波国に流罪となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月22日 
阿波国にて米津正勝が処刑される。
出典:『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月3日 
徳川秀忠蜂須賀至鎮淡路国を給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月20日 
蜂須賀蓬庵二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。本多正純が取次。蓬庵が刀・脇差を家康に献上する。松平正久が受け取る。家康は蓬庵の早々の上洛を称す。蓬庵は、子・蜂須賀至鎮よりすぐに上洛して礼をするようにといわれていたが、阿波国は波が高く渡海が延引したと述べる。また、淡路国の拝領につき、由緒のある国を得て厚恩余りある旨を述べる。家康は至鎮の大坂城(摂津国)攻めでの忠節を賞すとともに、嫡孫聟でもあるので公達と同じ扱いであることを述べる。蓬庵は感涙を抑えて退出する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和6年 1620年 2月26日 
蜂須賀至鎮が死去する。
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寛永5年 1628年 8月18日 
稲田植元が脇城(阿波国)にて死去する。
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寛永15年 1638年 12月30日 
蜂須賀家政が死去する。
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慶安3年 1650年 3月12日 
稲田示植が死去する。
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慶安5年 1652年 3月23日 
稲田植次が死去する。
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