地 名 の 歴 史

播磨国[国] はりまのくに
初 見-
播磨国
明石郡、加古郡、印南郡、飾磨郡、飾東郡、飾西郡、三木郡、賀茂郡、加西郡、加東郡、多可郡、神崎郡、神東郡、神西郡、宍粟郡、揖保郡、揖東郡、揖西郡、赤穂郡、佐用郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社-
寺 院-
城 郭播磨国の城郭
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
播磨国[国] 年表
寿永3年・治承8年 1184年 2月4日 
平宗盛等が一谷(摂津国)に城を構え軍勢を集める。
出典:-

応安4年・建徳2年 1371年 11月29日 
赤松則祐が死去する。
出典:-

嘉吉1年 1441年 6月24日 
赤松満祐が自邸にて足利義教を殺害する。
出典:『斎藤恒基日記』同年月日条、『嘉吉物語』

嘉吉1年 1441年 8月19日 
和坂(播磨国)にて細川持常・赤松貞村と赤松満祐が戦う。
出典:『後鑑』同年月日条

天文15年 1546年 11月29日 
黒田孝高が播磨国姫路にて生まれる。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天文23年 1554年 -月-日 
井上之房播磨国飾東郡松原郷にて生まれる。
出典:-

永禄12年 1569年 -月-日 
青山にて赤松政秀と黒田職隆孝高父子が戦い、黒田家が勝利する。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正6年 1578年 2月23日 
羽柴秀吉別所長治の与力で加古川(播磨国)の糟屋内膳の城を借り軍勢を入れ置き、自身は書写山(播磨国)に要害を構え居陣する。
別所長治が三木城(播磨国)に籠城し、織田信長に叛旗を翻す。
出典:『信長公記』巻11(4)「磯野丹波磯貝新左衛門の事」

天正6年 1578年 3月7日 
羽柴秀吉が姫路(播磨国)に到着する。
秀吉の姫路着陣を受け、別所賀相が秀吉を警戒し、別所長治に織田家を叛くよう勧め、長治は織田家に叛き三木城(播磨国)に籠城する。
出典:『天正記』「播磨別所記」

天正6年 1578年 7月3日 
上月城(播磨国)にて尼子勝久・豊若丸・常若丸父子、尼子氏久、尼子通久、神西元通が自害する。山中幸盛は毛利家の捕虜となる。
出典:-

天正7年 1579年 9月10日 
大村の合戦で、羽柴秀吉別所長治が戦う。長治は谷大膳が籠る羽柴方の付城を一度は落とすも、秀吉が別所甚太夫・別所三太夫・別所左近将監・光枝小太郎・光枝道夕・櫛橋弥五郎・高橋平左衛門・三宅与兵次・小野権左衛門・砥堀孫太夫を討ち取る。
出典:『天正記』「播磨別所記」

天正13年 1585年 8月22日 
黒田職隆が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『黒田家譜』巻1「職隆記」・巻2「孝高記」

天正13年 1585年 9月3日 
羽柴秀吉が大和国へ向かう。
秀吉が分国中で国替を実施。大和国の筒井定次を伊賀国に、大和国を弟・秀長に、高山重友を明石(播磨国)に、堀秀政佐和山(近江国)から北之庄(越前国)30万石に、中川秀政を三木(播磨国)に移封する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月25日 
申刻(15-17時)、池田輝政が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年月29日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長18年 1613年 3月15日 
徳川家康秀忠父子が播磨国仕置きのため安藤重信村越直吉を播磨国に遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月27日 
播磨国仕置き(池田輝政死後の後処理)に赴いていた村越直吉安藤重信が駿府城(駿河国)に戻る。若原良長、中村正勝による領国経営が問題だったため、良長を罰す。正勝は病死する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月16日 
池田輝政の遺領について徳川家康が裁定する。播磨国は池田玄隆に、備前国および播磨国宍粟郡・佐用郡・赤穂郡は池田忠継に給付することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項、同巻第265「池田忠継」の項

慶長18年 1613年 8月22日 
池田輝政の遺領相続につき、池田玄隆忠継兄弟が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。玄隆は銀300枚・太刀(銘 守家)を、忠継は銀200枚・太刀(銘 長光)を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月27日 
良正院駿府城(駿河国)にいる父・徳川家康のもとを訪れる。義子の池田利隆が播磨国を、実子の池田忠継が備前国を領しているが、利隆により備前国が奪われるのではないかと思い、国替えを希望すべく家康のともとに赴く。
出典:『当代記』同年月日条、

慶長20年 1615年 2月4日 
寅刻(3-5時)、が死去する。
出典:『駿府記』同年月8日条

慶長20年 1615年 2月23日 
池田忠継が疱瘡を患い岡山(備前国)にて死去する。
*『駿府記』では22日死去となっている。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項、『駿府記』同年月28日条

慶長20年 1615年 2月28日 
池田家の飛脚が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、22日に池田忠継が死去したことを徳川家康に伝える。取次は本多正純。家康は驚き、愁傷する。家康は忠継の兄・池田利隆と忠継の舅・森忠政のもとに森可澄を遣わし、備前国の仕置きをするように命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和3年 1617年 7月28日 
幕府が小笠原忠真に20000石を加増し、松本(信濃国)より明石(播磨国)100000石に移封する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」の項

寛永8年 1631年 8月10日 
本多忠政姫路城(播磨国)にて死去する。
出典:-

寛永9年 1632年 10月11日 
小笠原忠真が明石(播磨国)より小倉(豊前国)150000石に、小笠原長次龍野(播磨国)より中津(豊前国)80000石に、小笠原忠知が杵築(豊後国)40000石に移封となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」、同巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原長次」の項、同巻第190「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠知」

地名リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.