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文禄2年 1593年 6月20日
豊臣秀吉が豊後国を蔵入地とする。
出典:(文禄2年)6月20日付豊臣秀吉朱印状(『島津家文書』1-351号)

文禄2年 1593年 6月3日
松平景忠が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第27「松平景忠」の項

文禄2年 1593年 6月3日
父・景忠が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第27「松平景忠」の項

文禄2年 1593年 6月14日
佐竹義宣の名代として佐竹義久が朝鮮に渡海する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄2年 1593年 6月29日
黒田孝高浅野長政が牧使城を攻め落とす。
出典:(文禄2年)8月9日付豊臣秀次朱印状(『浅野家文書』84号)

文禄2年 1593年 8月3日
豊臣秀頼が生まれる。
*『太閤さま軍記のうち』では4日。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『太閤さま軍記のうち』

文禄2年 1593年 8月5日
今井宗久が死去する。
出典:-

文禄2年 1593年 8月6日
保科正俊が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正俊」の項

文禄2年 1593年 8月10日
福原貞俊が死去する。
出典:-

文禄2年 1593年 8月14日
豊臣秀吉が、お拾を見るため名護屋城(肥前国)を発つ。寺沢広政を名護屋城(肥前国)の留守居として置く。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄2年 1593年 8月18日
佐竹義宣が名護屋城(肥前国)を出立する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄2年 1593年 8月25日
豊臣秀吉大坂城(摂津国)に到着する。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄2年 1593年 8月29日
加藤光泰が西生浦(朝鮮国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

文禄2年 1593年 9月7日
島津久保が巨済(朝鮮)にて死去する。
出典:(文禄2年)閏9月23日付島津龍伯追悼和歌(『島津家文書』3-1451号)

文禄2年 1593年 9月11日
佐竹義宣大坂城(摂津国)に到着し、豊臣秀吉に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄2年 1593年 閏9月5日
豊臣秀吉が有馬(摂津国)より大坂城(摂津国)に戻る予定であったが、眼病のため8日に延期となる。
出典:『駒井日記』同年閏9/6条

文禄2年 1593年 閏9月5日
木曽から美濃国に送られた柾板2200駄について、近江国の豊臣秀次領内および美濃国の蔵入地の人夫をもって朝妻(近江)まで運送するよう益田照従が命じられる。
出典:『駒井日記』同年月16日条

文禄2年 1593年 閏9月6日
佐竹義宣水戸城(常陸国)に帰城する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

文禄2年 1593年 閏9月7日
豊臣秀吉が有馬(摂津国)より大坂城(摂津国)に戻る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月8日
石田三成増田長盛大谷吉継が朝鮮から名護屋城(肥前国)に到着する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月9日
浅野長政大坂城(摂津国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月11日条

文禄2年 1593年 閏9月13日
豊臣秀次蒲生氏郷に2000石を給付する。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月14日
豊後国より豊臣秀次のもとに検地帳がもたらされ、同国の収穫高は42万石とされる。
[代官領知行割]
大野郡 54,201石8斗…太田一吉
直入郡 32,980石9斗3升…熊谷直盛
大分郡 57,929石…早川直政
海士辺郡 44,800石…垣見一直・宮部継潤
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月15日
本願寺教如大坂城(摂津国)に到着する。施薬院全宗長束正家、山中長俊が豊臣秀吉の使者として教如のもとを訪れる。全宗等からは、大坂に居所を拵えること、織田信長にとって教如は「大敵」であったこと、秀吉の代となり雑賀から貝塚、天満、七条(京都)へ本願寺が移転したことを秀吉の「御恩」と思うべきこと、教如の不行儀は父・顕如から秀吉に度々報告があったこと、顕如が本願寺住持職を准如に譲ると記した譲状が存在すること、顕如が折檻した家臣を教如が召し抱えていること、教如の妻女のこと、教如は心から不届きの心中を改めるべきこと、心を改めたのであれば今後10年は教如を門跡として認め、10年経った後は弟・准如に本願寺住持職を譲りること、この処置は教如を一方的に処罰するものであるが秀吉が教如に目をかけているからこそのことであること、もし改心しないのであれば3000石を下付し無役にして秀吉の茶の湯友達として奉公すること、以上の事を言い渡される。教如は上記の要件を承知し10年後に准如へ住持職を譲ることを返事する。しかし、その場にいた家臣が譲状の存在に疑義を呈したため、秀吉の怒りを買い、すぐに退隠するよう命じられる。
出典:『駒井日記』同年月16日条

文禄2年 1593年 閏9月16日
豊臣秀吉が本願寺の住持職について、譲状に基づき、本願寺教如を退け、弟・准如に相続させるよう命じる。
出典:『駒井日記』同年月日条・同年月17日条

文禄2年 1593年 閏9月17日
教如が帰京する。
出典:『駒井日記』同年月18日条

文禄2年 1593年 閏9月20日
申刻(15-17時)、豊臣秀吉大坂城(摂津国)より伏見(山城国)に入る。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月22日
豊臣秀吉が葛西・大崎一揆を扇動していたとする伊達政宗を赦免するが、身上については保留とする。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月22日
伏見城(山城国)にて口切の茶事が行われる。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄2年 1593年 閏9月23日
浅野長政が甲斐国を給付される。
出典:『駒井日記』同年月日条

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