人 物 史

島津久保 しまづ ひさやす
生 没 年元亀3年(1572)-文禄2年(1593)9/7
出 身日向国諸県郡加久藤城幼 名万寿丸
別 称又一郎
法 名-
戒 名一唯恕参
島津義弘園田実明の娘(広瀬助宗の娘)
兄 弟 姉 妹お屋地、島津鶴寿丸、島津久保島津忠恒/家久、島津万千代丸、島津忠清、女(伊集院忠真の妻、島津久元の妻)
配 偶 者亀寿(島津義久の娘)
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官 位-
役 職-
城 郭飯野城(日向国)
参 考 文 献○『寛政重修家譜』巻第108「清和源氏 為義流 島津」「島津久保」
関 連 デ ー タ-
島津久保 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
元亀3年1572--1島津久保が日向国諸県郡加久藤城にて生まれる。『寛政重修諸家譜』巻第108「島津久保」の項
天正1年15737282「元亀」より「天正」に年号が改まる。-
天正4年157611225兄・鶴寿丸が死去する。『寛政重修諸家譜』巻第108「島津某(鶴寿丸)」の項
天正6年15781177弟・忠恒が日向国諸県郡加久藤城にて生まれる。『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項
天正15年158712516島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年15872116島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年15872516島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年158721016島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年158721516島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年158722016島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年158722516島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。『当代記』巻2同年月日条
天正15年15873116島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年158732916豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』
天正15年15874116豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1
天正15年15874216豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年15874416豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158741116豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158741116豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」
天正15年158741316豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158741616豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158741716宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。『藤堂家覚書』
天正15年158741916豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年158742116豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年15875516豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年15875616島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。『寛政重修諸家譜』108「島津」
天正15年15875816太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年15875916豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)
天正17年15892118島津久保西笑承兌のもとを訪れる。『鹿苑日録』同年月日条
文禄1年159212821「天正」より「文禄」に年号が改まる。-
文禄2年15939722島津久保が巨済(朝鮮)にて死去する。(文禄2年)閏9月23日付島津龍伯追悼和歌(『島津家文書』3-1451号)
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