人 物 史

加藤光泰 かとう みつやす
生 没 年天文6年(1537)-文禄2年(1593)8/29
出 身美濃国多芸郡橋爪荘今泉村幼 名-
別 称作内、権兵衛
法 名-
戒 名曹渓院剛園宗勝
加藤景泰-
兄 弟 姉 妹女(一柳直秀の妻)、加藤光泰、加藤光定、加藤平左衛門
配 偶 者一柳藤兵衛の娘
加藤光吉[養子]、娘(加藤光吉の妻)、娘(竹中重門の妻)、娘(間島彦太郎の妻、石川光遠の妻)、娘(村上太郎兵衛の妻)、娘(冷泉中納言の妻)、加藤貞泰、加藤光直
官 位遠江守
役 職-
城 郭周山城(丹波国)、犬山城(尾張国)、大垣城(美濃国)、佐和山城(近江国)、甲府城(甲斐国)
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第5輯 刊本
関 連 デ ー タ加藤光泰の関連文化財
加藤光泰 年表
天文6年 1537年 -月-日 1歳
加藤光泰が美濃国厚見郡今泉村橋詰にて生まれる。
出典:『加藤光泰貞泰軍功記』

弘治1年 1555年 10月23日 19歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 22歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 34歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 37歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正8年 1580年 -月-日 44歳
子・貞泰が生まれる。
出典:『加藤光泰貞泰軍功記』

天正10年 1582年 6月2日 46歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月13日 46歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正11年 1583年 4月21日 47歳
賤ケ岳の合戦にて羽柴秀吉柴田勝家が戦い、秀吉が勝利する。
羽柴秀吉勢:羽柴秀吉[大将]、福島正則(一番槍)、加藤清正(一番槍)、加藤嘉明(一番槍)、片桐且元(一番槍)、脇坂安治(一番槍)、平野長泰(一番槍)、糟屋武則(一番槍)、石川一光(一番槍・戦死)、桜井家一(一番槍)、羽柴秀長藤堂高虎[羽柴秀長勢]、黒田孝高黒田長政竹森次貞[黒田孝高勢]、菅正利[黒田孝高勢](首級2)、加藤光泰
柴田勝家勢:柴田勝家[大将]、柴田勝政(戦死)、毛受勝照(戦死)、佐久間盛政拝郷家嘉(戦死)、山路正国[佐久間盛政勢](戦死)、長連龍[前田利家勢]。
出典:(天正11年)4月25日付豊臣秀吉書状(『増訂加能古文書』同年月日条「小早川家文書」)、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『黒田長政事績』、『菅氏世譜』、『藤堂家覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項、同774「加藤光泰」の項

天正12年 1584年 3月13日 48歳
羽柴秀吉の命により加藤光泰、木村隼人、堀尾吉晴が甲賀(近江国)に陣取る。
出典:(天正12年)3月13日付羽柴秀吉判物(『豊臣秀吉文書集成』2-968号)

天正13年 1585年 8月-日 49歳
羽柴秀吉勢として越中国に織田信雄織田信包前田利家前田利長丹羽長重細川忠興金森長近蜂屋頼隆宮部継潤池田輝政稲葉貞通蒲生氏郷、木村定重、堀尾吉晴山内一豊加藤光泰九鬼嘉隆が陣取る。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正18年 1590年 7月13日 54歳
豊臣秀吉小田原城(相模国)に入城する。
秀吉が駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国への移封を拒否した織田信雄の所領を改易する。
秀吉が加藤光泰に甲斐国240000石を給付する。
出典:『小田原日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

文禄1年 1592年 12月8日 56歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 2月18日 57歳
豊臣秀吉が、明・朝鮮軍に動きがあった場合、対応できる軍勢がいなければ、宇喜多秀家を大将とし、前野長康、加藤光泰石田三成大谷吉継を付し対応するように命じる。
出典:同年月日付豊臣秀吉朱印状写(『浅野家文書』262号)

文禄2年 1593年 8月29日 57歳
加藤光泰が西生浦(朝鮮国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

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