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天文7年 1538年 8月21日
本願寺証如細川晴元に制札の礼として太刀1腰・銭3000疋(30貫)を、晴元の取次・古沢に銭500疋(5貫)を、茨木長隆に太刀1腰・馬代を贈る(使者は八尾新四郎)。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 8月27日
8/23に細川晴元へ遣わした八尾新四郎が大坂本願寺に戻り、古沢(晴元取次)・茨木長隆が喜んでいた旨を証如に伝える。また、晴元が発令した徳政令について、大坂本願寺寺内は徳政の適用範囲外である旨が晴元より伝えられる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月1日
六条八幡宮に納める御馬代1疋について御倉 正実坊にいるものを送ってはと大舘尚氏が宮内卿局に問い合わせたところ問題ないとの返答を受けたので治部河内守が正実坊のもとにその旨を伝えることを細川高久へ折紙をもって伝える。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月1日
大舘尚氏のもとに細川高久が訪れる。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月2日
六条八幡宮に納める御馬代1疋について、八朔の進上物として細川晴元が幕府に納めた馬が御倉 正実坊にいるのでそれを請け取るようにと治部河内守に伝える。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月2日
船頭が定まらないという事件が起こるが、この日、船頭を宗長幸(対馬国)と渡辺右衛門尉(周防国山口)に定める。
出典:『大願寺尊海渡海日記』

天文7年 1538年 9月3日
北条氏康鶴岡八幡宮獅子勧進として東郡・西郡の家1間に2銭ずつ徴収することを認める。
出典:『戦国遺文』後北条氏編1巻-157号「相州文書」

天文7年 1538年 9月4日
揖斐光親本願寺証如へ送った書状が証如のもとに届く。尼子詮久が播磨国へ攻め入ることを知らせる。また、美濃国がいまだ統一されていない状況であることを伝え、近日中に軍事行動を起こすので、その際に真宗門徒が味方となるように命令を下してくれれば祝着であると伝える。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月8日
細川高久細川晴元による山城国段銭賦課について奉公衆の所領を免除するようにとする御内書の作成を大舘常興に依頼し、案文を受け取る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月14日
大坂本願寺寺内の六町の番屋に火付・盗人・博打を発見し報告してきた者には代物(褒美)を遣わす旨を周知させる制札を発給する。下間頼慶が花押を捺す。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月15日
本願寺証如が9月4日付揖斐光親書状の返書を発給する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月15日
誓願寺が、三淵晴員を介して本願寺証如に鐘鋳勧進の奉加を募る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月17日
本願寺証如に9月15日に三淵晴員を介して依頼があった誓願寺鐘鋳勧進の奉加について、以前(山科に本願寺があった頃)は「近所」であったので奉加に応じたが、現在は大坂に本願寺があり誓願寺より遠く、かつ資金難であるため奉加依頼を断る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月24日
蜷川親俊が清水寺に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月2日
足利義明・里見義堯が国府台に出勢したのを受け、北条氏綱氏康父子が下総国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月6日
北条氏綱が国府台に向け江戸城(武蔵国)を出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月7日
国府台にて足利義明と北条氏綱が戦い、氏綱が勝利する。義明、足利義純、足利基頼が戦死する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月10日
北条氏綱小田原城(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月12日
高畠長直本願寺証如に、嵯峨洪恩院領安吉保、嵯峨勝智院領安重名の門徒へ領主の支配に従うよう命令を下すように依頼する。証如は10月13日に在地門徒に命令を下す。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月15日
三好政長高畠長信高畠長直が杉坂に現れた敵勢と戦い勝利する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月16日
本願寺証如が京極高延、京極高吉に音信として書状・太刀・馬代を贈る。また、三好長慶に音信として書状、太鼓・小鼓5枚ずつ、13種5荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月18日
三好長慶が16日の本願寺証如の音信に対して返事をする。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月19日
足利義晴細川晴元が八木城(丹波国)を攻め、負傷者を出す。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月20日
真如堂にて念仏を始める。例年は15日に開始であったが、本年は物騒につき20日より始める。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月23日
高畠長直のもとに蜷川親俊が訪れる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月25日
蜷川親俊が北野社に参詣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月-日
細川晴元の命により三好政長が山城国上郡にて段銭を徴収する。
出典:『巌助往年記 上』同年月日条

天文7年 1538年 11月3日
足利義晴細川晴元が八木城(丹波国)を攻め、負傷者を出す。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 11月-日
国府台にて北条氏綱と足利義明・里見義堯が戦い、氏綱が勝利する。義明は戦死する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」

天文7年 1538年 11月10日
足利義晴細川晴元が八木城(丹波国)を攻め落とす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

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