天文11年 1542年 3月10日 |
三好政長が下河内に向かう。 |
出典:(天文10年)3月10日付三好政長書状(「酒井氏書状文書」『戦国遺文』三好氏篇第1巻-165号) |
天文11年 1542年 3月11日 |
大舘常興が北畠晴具に羅3疋(萌黄、紫、黒)を贈る。畠山匠作へ羅3疋(紅、萌黄、黒)を贈る。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月11日 |
多賀大社の諸殿および橋の修造分担を衆議によって定める。 不動坊…本社拝殿・舞台・庁屋、輪橋 般若坊…神楽所・籠所 福泉 …山田社・同社拝殿惣囲 成就坊…神明両宮・同宮拝殿惣囲 観音坊…日向社・同社拝殿惣囲、日向之前橋 乗音 …三宮・聖宮 成就坊・般若坊・乗音・観音坊…上森中・四屋橋 地下人…下馬橋・桜町馬場橋 |
出典:多賀大社修理所衆議定書写「多賀大社文書」『多賀大社叢書』62号 |
天文11年 1542年 3月12日 |
足利義晴が御供衆以下諸奉公衆に50疋を配当する。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月12日 |
足利義晴の使者として大舘常興のもとを祐阿が訪れる。訪問目的は、筒井順昭より代替わりの御礼進上があったが御内書を発給するべきか否かとのこと。常興としては不要であると考えるが、六角定頼や伊勢貞孝が必要と考えるならば発給してもよいと返答する。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月13日 |
北畠晴具の妻と子息2名、随従300名が長谷寺に参詣するため奈良(大和国)に到着し笠坊に宿泊する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月16日 |
万里小路惟房が坂本(近江国)に在陣中の足利義晴のもとに礼に赴くべく、京都(山城国)を出発する。 |
出典:『惟房公記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月17日 |
万里小路惟房が坂本(近江国)に在陣中の足利義晴のもとに礼に赴く。申次は朽木稙綱。 |
出典:『惟房公記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月17日 |
木沢長政が信貴山城(大和国)・二上・飯盛山城(河内国)の軍勢5000をもって遊佐長教が籠る高屋城(河内国)を攻める。これを受け、細川晴元、三好長慶、三好政長、六角定頼が出陣する。太平寺の合戦で、細川・三好・遊佐・六角と長政と戦い、細川等が勝利し、長政は戦死する。 合戦後、信貴山城が焼失する。 |
出典:『厳助往年記』同年月日条、『天文日記』同年月日条、『蜷川親俊日記』同年月18・19日条、『惟房公記』同年月日18日条 |
天文11年 1542年 3月18日 |
三好長慶が榎並(河内国)に入り放火する。また飯盛山麓にて畠山勢と戦い勝利する。 |
出典:『私心記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月19日 |
細川晴元より木沢長政の首が足利義晴のもとに届く(使者は山中橘左衛門尉)。これを受け、晴元に長政と遊佐又五郎を討ち取ったことは神妙との旨を記した御内書を発給する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月19日 |
3月17日の太平寺の合戦で木沢長政を討ち取った高屋小島に30石の所領を給付する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月20日 |
本願寺証如が三好長慶に対し太平寺の合戦で木沢長政を討ち取り勝利したことを祝す。 |
出典:『天文日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月21日 |
大舘常興が茨木長隆に書状を遣わし、井出新庄の公用について去年分が納入されていないので、池田氏に納入するよう伝えてほしいと伝える。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月21日 |
細川晴元が太平寺の合戦で戦功のあった鷹山弘頼に感状を発給する。 |
出典:(天文11年)3月21日付細川晴元書状(「興福院文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-166号) |
天文11年 1542年 3月26日 |
大舘常興が上洛する。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月26日 |
関白に就任する。藤氏長者となる。 |
出典:『系図纂要』「鷹司家」 |
天文11年 1542年 3月26日 |
細川晴元が摂津国より上洛する。 |
出典:『惟房公記』同年月28日条 |
天文11年 1542年 3月27日 |
細川晴元が京都より足利義晴の居る坂本(近江国)に赴く。 |
出典:『惟房公記』同年月28日条 |
天文11年 1542年 3月28日 |
足利義晴・菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。 細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条 |
天文11年 1542年 3月-日 |
大内義隆が赤穴城(出雲国)を攻め、同城を落とす。 |
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収) |
天文11年 1542年 閏3月5日 |
十市遠忠が足利義晴の上洛の礼として十市平七を遣わす。義晴は平七と対面する。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 閏3月8日 |
三宅国村が毛氈免許のことにつき礼として馬・太刀・3000疋を足利義晴に進上する。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 閏3月10日 |
右大弁となる。 |
出典:『公卿補任』天文14年 |
天文11年 1542年 閏3月10日 |
権大納言となる。 |
出典:『系図纂要』「広橋」 |
天文11年 1542年 閏3月11日 |
足利義晴が六角定頼へ坂本(近江国)滞在時の支援を謝すべく御内書を発給するにあたり、案文の作成を大舘常興に命じる。常興より案文2案が提出される。 |
出典:『大舘常興日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 閏3月12日 |
足利義晴が相国寺の各塔頭を訪れ、室町将軍歴代に焼香を捧げるとともに緞子を1段ずつ塔頭に贈る。 撰銭の事について、先例通りに執事代に命じる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 閏3月13日 |
正四位上に叙される。 |
出典:『公卿補任』天文14年 |
天文11年 1542年 閏3月16日 |
足利義晴が酒宴を催す。細川晴元が参加し、晴元より鷹が進上される。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |
天文11年 1542年 閏3月18日 |
畠山稙長より礼として遊佐蔵人が伊勢貞孝のもとを訪れる。 |
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条 |