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天文11年 1542年 2月12日
唐船帰国につき、足利義晴が錦1疋、羅1疋、紗1足を朝倉孝景に贈るよう命じるとともに、11日付孝景宛御内書を発給する。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月15日
赤松晴政より御内書の礼として太刀1腰(則房)、腰物(信国)の進上足利義晴に披露したことを伝える晴政宛の返書を伊勢貞孝が調える。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月16日
17日に沙汰始を例年通り執行するため日行事の摂津元造が内談衆中宛にその旨を伝える折紙を発給する。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月17日
御沙汰始。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月17日
加藤常正が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第776「加藤常正」の項

天文11年 1542年 2月19日
朽木稙綱大舘常興に蜜柑1包を贈る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月20日
畠山稙長、丹下備後より畠山弥九郎との和睦は難しいこと、御内書の発給を忝く思うことを伝える書状が大舘常興に届く。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月21日
足利義晴細川晴元の戦勝祈願の祈祷料を京中諸土倉に賦課する。担当は細川高久
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月21日
遊佐次郎左衛門が大舘常興に年始の礼として太刀1腰を贈る。常興は遊佐に返礼として太刀1振を贈る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月23日
京中倉役について小物・雑色は免除することを足利義晴が命じる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月25日
青蓮院尊鎮足利義晴に3合3荷を贈る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月25日
御霊神社別当 行光坊が伊勢貞孝に礼として10疋を贈る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月25日
蒲生定秀、三雲勢が白川(山城国)に陣取る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月-日
大内義隆尼子晴久を攻めるべく出雲国に向けて出陣する。陶隆房、内藤興盛、毛利元就等が参加する。新庄西禅寺に大内勢が陣取る。
出典:『江濃記』「京極生害之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 2月-日
遊佐長教足利義晴に当春の礼として太刀1腰を進上する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月21日条

天文11年 1542年 3月-日
大内義隆勢が出羽二山に陣取る。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 3月3日
大内義隆熊谷信直に周防国熊毛郡高水荘内50石の地を給付する。
出典:天文11年3月3日付大内義隆判物(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」125号)

天文11年 1542年 3月4日
大舘晴光が若狭国松永荘の半分を知行する。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月5日
熊野より智勢が興福寺多聞院を訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月6日
細川晴元伊勢貞孝に長塩を遣わし、唐船進物のことについて礼を述べる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月6日
智勢が興福寺多聞院より南荘材木町にある熊野の穀屋に帰る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月8日
摂津元造細川高久大舘常興のもとを訪れ、禁裏より内裏修復のことについて、用木を清水山より切り出すこと、また山科郷内の神木3本を三宝院より買い取ることについて、足利義晴からの諮問があったため常興に相談する。常興は、そのように下知をすればよいとの返答する。高久は手日記にその旨を記載し、元造と常興の署判を得る。
常興が元造に奈良油煙1挺を贈る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月8日
遊佐長教が高屋(河内国)にて長政の弟・中務の父である斎藤山城守を殺害する。
13日に畠山稙長が紀伊国より熊野衆の龍神・山本・玉木・湯川・アイソ・一瀬、根来寺衆、高野山粉河寺衆の計30000を率いて河内国に入国するとの噂が京都、奈良にて流れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月8日
摂津元造細川高久大舘常興のもとを訪れ、禁裏より内裏修復のことについて、用木を清水山より切り出すこと、また山科郷内の神木3本を三宝院より買い取ることについて、足利義晴からの諮問があったため常興に相談する。常興は、そのように下知をすればよいとの返答する。高久は手日記にその旨を記載し、元造と常興の署判を得る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月8日
三好政長に渡海する。
出典:(天文10年)3月10日付三好政長書状(「酒井氏書状文書」『戦国遺文』三好氏篇第1巻-165号)

天文11年 1542年 3月9日
遊佐長教が斎藤山城守を殺害したことが幕府に伝わる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月21日条

天文11年 1542年 3月9日
瀬澤において武田晴信が諏訪頼重・村上義清小笠原長時・木曽義政と戦う。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

天文11年 1542年 3月9日
三好政長高屋城(河内国)に向かう。
出典:(天文10年)3月10日付三好政長書状(「酒井氏書状文書」『戦国遺文』三好氏篇第1巻-165号)

天文11年 1542年 3月9日
三好長慶天王寺へ足軽を出し、所々を放火する。
出典:『私心記』同年月日条

天文11年 1542年 3月10日
畠山稙長に稙長出陣の旨を賞する御内書の発給につき、大舘晴光が父・常興に案文を求め、案文を得る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

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