人 物 史

栗山利安 くりやま としやす
生 没 年天文19年(1550)-寛永8年(1631)8/14
出 身-幼 名-
別 称善助、四郎右衛門、一葉斎、卜庵
法 名-
戒 名-
栗山浄順-
兄 弟 姉 妹栗山利安
配 偶 者村尾氏の娘、栄長院(佐波恵連の娘)、吉弘統幸の娘
栗山利章、益田縫殿介、虎(加藤成忠の妻)、吉(黒田一成の妻)、娘(堀定則の娘)、娘(小河政良の妻)、娘(中間忠胤の妻)
官 位備後守
役 職-
城 郭平田城(豊前国)、麻底良城(筑前国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ栗山利安の関連文化財
栗山利安 年表
天文19年 1550年 -月-日 1歳
栗山利安が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 6歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 9歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄12年 1569年 -月-日 20歳
青山にて赤松政秀と黒田職隆孝高父子が戦い、黒田家が勝利する。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

元亀1年 1570年 4月23日 21歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 24歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 7月-日 26歳
小寺政職岐阜城(美濃国)の織田信長のもとへ使者を遣わす。使者は黒田孝高
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正4年 1576年 5月14日 27歳
英賀(播磨国)にて毛利勢と黒田孝高が戦い、孝高が勝利する。
出典:(天正5年)5月16日付織田信長朱印状(福岡市博物館所蔵『軍師官兵衛』)、『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正5年 1577年 11月27日 28歳
羽柴秀吉が上月城(播磨国)を攻める。黒田孝高竹中重治が城攻めに加わる。上月城の後詰にやってきた宇喜多直家勢を破る。
出典:『信長公記』巻10(12)但馬播磨羽柴被申付事

天正5年 1577年 11月28日 28歳
羽柴秀吉が福原助就の佐用城(播磨国)を攻める。攻め衆・黒田孝高。孝高の家臣・竹森次貞が助就とその弟・伊王野土佐、福原家家老・祖父江左衛門を討ち取る。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正5年 1577年 12月-日 28歳
上月城(播磨国)の城兵が城主を殺害し羽柴秀吉に降伏する。秀吉は上月城に山中幸盛を入れ置く。
出典:『信長公記』巻10(12)但馬播磨羽柴被申付事、『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正5年 1577年 -月-日 28歳
黒田孝高が、織田信長に人質として子・松寿丸安土城に送る。信長は松寿丸を羽柴秀吉の長浜城(近江国)に置く。
出典:『黒田長政事績』

天正6年 1578年 2月23日 29歳
羽柴秀吉別所長治の与力で加古川(播磨国)の糟屋内膳の城を借り軍勢を入れ置き、自身は書写山(播磨国)に要害を構え居陣する。
別所長治が三木城(播磨国)に籠城し、織田信長に叛旗を翻す。
出典:『信長公記』巻11(4)「磯野丹波磯貝新左衛門の事」

天正6年 1578年 3月7日 29歳
羽柴秀吉が姫路(播磨国)に到着する。
秀吉の姫路着陣を受け、別所賀相が秀吉を警戒し、別所長治に織田家を叛くよう勧め、長治は織田家に叛き三木城(播磨国)に籠城する。
出典:『天正記』「播磨別所記」

天正6年 1578年 3月20日 29歳
羽柴秀吉が神吉城(播磨国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

天正6年 1578年 3月29日 29歳
羽柴秀吉別所長治の籠る三木城(播磨国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」、『豊臣記』

天正6年 1578年 4月2日 29歳
別府・阿閉(播磨国)にて雑賀衆・毛利勢と黒田孝高が戦い、孝高が勝利する。
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正6年 1578年 4月-日 29歳
吉川元春小早川隆景宇喜多忠家尼子勝久山中幸盛の籠る上月城(播磨国)に攻め寄せる。羽柴秀吉荒木村重が救援に赴くが、城が落城する。
出典:『信長公記』巻11(6)「高倉山西国陣之事」

天正6年 1578年 5月1日 29歳
播磨国に向けて織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛が出陣し、郡山に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月2日 29歳
織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月6日 29歳
織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛が大久保(播磨国)に到着する。先陣を神吉(播磨国)、志方(播磨国)、高砂(播磨国)に遣わし、加古川(播磨国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(8)「洪水の事」

天正6年 1578年 6月26日 29歳
羽柴秀吉荒木村重が高倉山(播磨国)の陣所を引き払い、書写山(播磨国)に移る。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月-日 29歳
羽柴秀吉が志方城(播磨国)を攻める。同城が降伏する。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 7月-日 29歳
織田信長勢が別所長治の籠る居城・三木城(播磨国)を包囲すべく付城を築く。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 10月21日 29歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月3日 29歳
荒木村重の謀反につき、織田信長安土城(近江国)に子・神戸信孝稲葉一鉄不破光治丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月10日 29歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月14日 29歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 29歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 29歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 29歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 4月26日 30歳
織田信忠三木城(播磨国)に砦を6ヶ所築くように命じる。その後、小寺政職の御着城(播磨国)を攻める。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 8月20日 30歳
織田信忠荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻めるため、岐阜城(美濃国)を発つ。柏原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月21日 30歳
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、安土城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月22日 30歳
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、堀秀政とともに安土城(近江国)を発つ。昆陽(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 9月2日 30歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 30歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 30歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 30歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 30歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 30歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 30歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月20日 30歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正8年 1580年 1月17日 31歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

天正9年 1581年 7月5日 32歳
羽柴秀吉吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を包囲する。
出典:『綿考輯録』巻4、『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正9年 1581年 11月6日 32歳
羽柴秀吉鳥取城(因幡国)に入り、各城に在番兵を配置する。
出典:天正9年11月8日付多雲宛書状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-353号)

天正9年 1581年 11月8日 32歳
羽柴秀吉姫路城(播磨国)に入り開陣する。
出典:天正9年11月8日付多雲宛書状写(『豊臣秀吉文書集』1巻-353号)、『信長公記』巻14(13)「伯耆国南条表発向の事」

天正10年 1582年 3月15日 33歳
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 3月-日 33歳
黒田孝高が巣雲山城(備中国)を攻める。黒田長政が初陣する。
出典:『黒田長政事績』

天正10年 1582年 5月8日 33歳
羽柴秀吉高松城(備中国)を包囲する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 6月2日 33歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月13日 33歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正11年 1583年 4月24日 34歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正13年 1585年 8月22日 36歳
黒田職隆が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『黒田家譜』巻1「職隆記」・巻2「孝高記」

天正14年 1586年 7月13日 37歳
高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻めるため、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が太宰府観世音寺に陣取る。龍造寺政家、秋月種実高橋元種等が城を包囲する。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月14日 37歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻める。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月25日 37歳
黒田孝高島津義久討伐の先勢として、軍勢3000を率い京都(山城国)を出立する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 7月27日 37歳
寅刻(3-5時)、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運の籠る岩屋城(筑前国)を攻め、未刻(13-15時)に島津勢が城内の高橋勢を悉く討つ。紹運は自害する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条、『黒田家譜』巻3「孝高記」、『高橋紹運記』35「岩屋城中役所配之事」、『寛政重修諸家譜』巻第113「高橋鎮種」の項目

天正14年 1586年 10月2日 37歳
羽柴秀吉島津義久に諸大名との停戦を命じ、従わない場合は成敗すると伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 11月7日 37歳
吉川元春元長父子、黒田孝高が宇留津城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:(天正14年)11月20日付豊臣秀吉書状(『吉川家文書』1-98号)、『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 11月7日 37歳
吉川元春元長父子、黒田孝高が宇留津城(豊前国)を攻め、同城を落とす。この城攻めに黒田勢として参加する。
出典:(天正14年)11月20日付豊臣秀吉書状(『吉川家文書』1-98号)、『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 12月12日 37歳
戸次川の戦いで島津家久仙石秀久長宗我部元親・十河存保が戦い、家久が勝利する。存保、長宗我部信親が戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正15年 1587年 1月25日 38歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 38歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 38歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 38歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 38歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 38歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 38歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 38歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 38歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 38歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 38歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 38歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月10日 38歳
黒田長政が通路切をすべく黒田一成栗山利安母里友信、小河伝右衛門、黒田玉松、後藤基次、野々村太郎兵衛、菅正利、桐山孫兵衛、益田与介、野口藤九郎、竹森次貞、高市常三等を引き連れ、耳川(日向国)に赴いたところ島津勢の襲撃を受ける。黒田勢は応戦し、撤退する。
出典:『菅氏世譜』、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月11日 38歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 38歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 38歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 38歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 38歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 38歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 38歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 38歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 38歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 38歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 38歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 7月3日 38歳
豊臣秀吉小倉城(豊前国)を発ち、下関(長門国)に到着する。
秀吉が黒田孝高に豊前国京都郡・築城郡・中津郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡を、毛利高政に豊前国規矩郡・田河郡を給付する。
孝高は馬ヶ嶽城(豊前国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 10月1日 38歳
城井鎮房等の豊前国衆が蜂起する。黒田長政は馬嶽城(豊前国)より出陣し、安雲村朝日嶺にて、黒田家に味方する国衆より人質を取る。姫隈城(豊前国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正15年 1587年 10月9日 38歳
黒田長政城井鎮房の籠る城井谷城(豊前国)を攻める。
出典:『菅氏世譜』、『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正16年 1588年 4月20日 39歳
黒田長政城井鎮房中津城(豊前国)に招き殺害する。
出典:-

天正18年 1590年 7月6日 41歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月12日 41歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 12月28日 41歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

文禄1年 1592年 12月8日 43歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 1月9日 44歳
8日夜に平壌城を撤退し明軍の追撃を受けていた小西行長が黒田家家臣・小河信章の守る龍泉寺に入城する。信章は行長を追う明を退ける。黒田長政が行長を白川城に迎える。行長は撤退を勧めるが、長政および小早川秀包は応戦を主張し、行長には撤退を勧める。龍泉城の信章は栗山利安の陣取る江陰に入り、秀包は牛峯に陣取る。
明軍は江陰を攻め、黒田勢の利安・黒田直之・母里友信・後藤基次・衣笠景延が応戦する。黒田勢は長政本陣の白川城まで引き上げる。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 1月10日 44歳
黒田長政が籠る白川城を明軍が攻める。黒田勢として戦いに参加する。
出典:『黒田家譜』巻6「長政記」

文禄2年 1593年 5月20日 44歳
豊臣秀吉が牧使城の包囲を命じる。包囲の衆は、鍋島直茂(軍勢7642)、黒田長政(軍勢5082)、加藤清正・相良頼房(軍勢6790)、毛利吉成(軍勢1671)、島津義弘(軍勢2128)、高橋元種(軍勢741)、秋月種長(軍勢388)、島津忠豊(476)、伊東祐兵(706)の総勢30980と小西行長宗義智・松浦鎮信・大村喜前・五島純玄・有馬晴信(軍勢7415)、長谷川秀一(軍勢2470)、細川忠興(軍勢2296)、昌原十一人衆(軍勢4400)、浅野長政長継父子(軍勢4000)、織田秀信(軍勢4018)、伊達政宗(軍勢1258)、黒田孝高(軍勢325)の総勢52000。
出典:文禄3年5月20日付豊臣秀吉朱印状(『浅野家文書』955号)

文禄2年 1593年 6月29日 44歳
黒田孝高浅野長政が牧使城を攻め落とす。
出典:(文禄2年)8月9日付豊臣秀次朱印状(『浅野家文書』84号)

慶長1年 1596年 10月27日 47歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 9月7日 48歳
毛利秀元黒田長政が軍勢30000を率い明軍が陣取る稷山(朝鮮国)に向かう。稷山にて解生率いる明軍と黒田勢が戦う。この戦いに黒田長政勢として参加する。
出典:『菅氏世譜

慶長3年 1598年 8月18日 49歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月5日 51歳
黒田長政徳川家康上杉景勝征伐につき、伏見城(山城国)より出陣する。黒田勢の先手士頭は後藤基次黒田一成、旗奉行は小河之直。大坂屋敷留守居に母里友信栗山利安、宮崎助大夫を置く。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 7月17日 51歳
大坂(摂津国)の黒田邸の留守居をしてた栗山利安母里友信が、中津城(豊前国)に居る黒田如水に向けて、石田三成の蜂起を告げる使者・野間源兵衛を送る。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 7月23日 51歳
黒田如水の小姓衆が中津(豊前国)に向かって大坂(摂津国)を出航する。
出典:『清正行状奇』

慶長5年 1600年 7月29日 51歳
黒田如水の小姓衆が中津(豊前国)に到着する。
出典:『清正行状奇』

慶長5年 1600年 -月-日 51歳
黒田如水が毛利勝信の居城・小倉城(豊前国)を攻め落とす。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月9日 51歳
辰刻(7-9時)、黒田如水が豊後国に攻め入るべく中津城(豊前国)より出陣する。備一番は母里友信、二番は黒田直之、三番は栗山利安・黒田五郎右衛門、四番は井上之房、五番は野村市右衛門・後藤左門、六番は母里与三兵衛・時枝平大夫、七番は久野次左衛門・曽我部五右衛門・池田九郎兵衛・黒田安大夫の総勢9000余。中津城には黒田利則を、感田城(豊前国)には衣笠景延・高橋彦次郎を、馬ヶ嶽城(豊前国)には桐山信行・宮崎助大夫をを置く。如水勢は高森城にて一宿する。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月10日 51歳
黒田如水勢が高田城(豊後国)の竹中重信の軍勢と合流し、赤根峠に陣取る。
夜、大友義統が浜脇(豊後国)に到着する。大友勢は松井康之有吉立行の籠る杵築城(豊後国)を攻める。孝高は井上之房・久野次左衛門・野村市右衛門・後藤左門・時枝平大夫・母里与三兵衛・曽我部五右衛門・池田九郎兵衛・黒田安大夫の軍勢3000を援軍として遣す。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月11日 51歳
黒田如水が垣見理右衛門・藤井九左衛門の籠る富来城(豊後国)を包囲する。如水は杵築城(豊後国)の救援に向かうため、同城より引き上げる。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月12日 51歳
黒田如水が安岐城(豊後国)の近くに陣取る。如水勢と安岐城を守っていた熊谷次郎介が戦う。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」

慶長5年 1600年 9月13日 51歳
石垣原の合戦で黒田如水大友義統が戦い、如水が勝利する。
出典:『黒田家譜』巻12「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 51歳
大友義統黒田如水に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長5年 1600年 9月16日 51歳
黒田如水が安岐城(豊後国)を攻めるべく、同地に向かう。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長5年 1600年 9月17日 51歳
黒田如水が熊谷外記の守る安岐城(豊後国)を包囲する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長5年 1600年 9月18日 51歳
黒田如水が安岐城(豊後国)攻めにつき井楼を築く。城を守る熊谷外記に降伏を勧める。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」

慶長5年 1600年 9月19日 51歳
安岐城(豊後国)を守る熊谷外記が、黒田如水に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月23日 51歳
黒田如水に垣見理右衛門・藤井九左衛門の守る富来城(豊後国)を攻める。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月24日 51歳
黒田如水に垣見理右衛門・藤井九左衛門の守る富来城(豊後国)を鉄砲にて砲撃する。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月2日 51歳
大垣城(美濃国)にて垣見一直が殺害されたことを伝える垣見家の使者が富来城(豊後国)を包囲中の黒田如水勢に捕縛される。如水は使者を富来城に遣わす。一直の死を知った垣見理右衛門・藤井九左衛門は富来城(豊後国)を如水に明け渡す。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月4日 51歳
黒田如水が富来城(豊後国)を発ち、広津山(豊前国)に陣取る。
出典:『黒田家譜』巻13「如水記」、『関原始末記』

慶長6年 1601年 -月-日 52歳
黒田長政が、大隈城(筑前国)に後藤基次を、鷹取城(豊前国)に母里友信を、麻底良城(筑前国)に栗山利安を、黒崎城(筑前国)に井上之房を、若松城(筑前国)に三宅若狭を、小石原城(筑前国)に黒田六郎右衛門を置く。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長9年 1604年 3月20日 55歳
辰刻(7-9時)、黒田如水が死去する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長20年 1615年 4月20日 66歳
黒田長政伊達政宗加藤嘉明東福寺不二庵に到着する。同庵に長政の妻、娘・とく、子・犬万、子・万吉が合流する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長20年 1615年 4月25日 66歳
大坂城(摂津国)攻めにつき、黒田長政福岡城(筑前国)の留守居である井上之房栗山利安黒田一成、桐山信行、黒田利長、菅正利に、軍勢10000にて出陣すること、15日分の兵粮・飼料を用意すること、上方にての兵粮奉行は毛利又左衛門とすること、玉薬・鉄砲奉行は勝野伊右衛門・高岡権太夫・倉八兵衛とすること、火矢奉行は都筑十兵衛とすること、楯の板しやく木奉行には山本兵右衛門・庄野半太夫・小西助之允とすること、大鋸喜兵衛・しやくわん喜左衛門・鍛冶10名・伴彦兵衛・松本五右衛門・馬杉喜右衛門をともなうこと、鉄100貫目を持参すること、福岡城の留守居は毛利左近・母里友信・手塚水雪・菅正利とすること、領内に関所を設け人の出入りを改めること、黒田徳松を福岡城番に加えること命じる。
出典:『菅氏世譜

慶長20年 1615年 5月5日 66歳
黒田忠長勢10000が兵庫(摂津国)に到着する。黒田勢:黒田忠長[大将]、井上之房、菅正利、衣笠景延、桐山信行、栗山利安、竹森次貞、母里友信、吉田長利。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長20年 1615年 6月6日 66歳
母里友信が死去する。
出典:-

元和1年 1615年 7月13日 66歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

寛永1年 1624年 2月30日 75歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永8年 1631年 8月14日 82歳
栗山利安が死去する。
出典:-

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.