人 物 史

堤教利 つつみ のりとし
生 没 年?-天正10年(1582)
出 身越前国幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
--
兄 弟 姉 妹堤教利
配 偶 者-
-
官 位左京亮
役 職-
城 郭-
参 考 文 献○『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」
関 連 デ ー タ-
堤教利 年表
- -年 -月-日 
堤教利が越前国にて生まれる。
出典:『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正10年 1582年 6月2日 
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月13日 
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

天正10年 1582年 7月7日 
織田信長死後の所領分配として、織田信雄に伊勢国・尾張国が、織田信孝に美濃国が、柴田勝家に長浜(近江国)20万石が、羽柴秀吉に山城国・河内国が、羽柴秀長に丹波国が、丹羽長秀に近江国高嶋郡・志賀郡が、池田恒興に河内国十七ヶ所・大坂城(摂津国)が、堀秀政に近江国中郡・織田三法師の傅役が、筒井順慶に大和国宇智郡・宇多郡と大和国一円支配が付される。
秀吉が下京の六条に城を築く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 -月-日 
堤教利が佐和山(近江国)にて死去する。
出典:『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

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