人 物 史

安田国継 やすだ くにつぐ
生 没 年弘治2年(1556)-慶長2年(1597)6/2
出 身美濃国安田村幼 名-
別 称安田作兵衛、天野源右衛門、天野貞成
法 名-
戒 名善要智仙人禅定門
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兄 弟 姉 妹安田国継
配 偶 者-
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官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ安田国継の関連文化財
安田国継 年表
弘治2年 1556年 -月-日 1歳
安田国継が生まれる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 3歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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元亀1年 1570年 4月23日 15歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
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天正1年 1573年 7月28日 18歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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天正10年 1582年 6月1日 27歳
夜、明智光秀が重臣の明智秀満明智光忠、藤田行政、斎藤利三と談合し、織田信長を討つこと決意する。亀山城(丹波国)より出陣する。
出典:『信長公記』巻15(31)「明智日向守逆心の事」

天正10年 1582年 6月2日 27歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月3日 27歳
明智光秀坂本城(近江国)に入る。大津、松本、瀬田(以上、近江国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月4日 27歳
明智光秀安土城(近江国)を接収する。丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に山崎片家を、羽柴秀吉の居城・長浜城(近江国)に斎藤利三を入れ置く。
4日の大和国より筒井順慶の一手として光秀のもとにやってきた南方衆と井手衆の一部が近江国に出陣する。光秀と順慶は一味と奈良では認識される。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

天正10年 1582年 6月13日 27歳
山崎(山城国)にて織田信孝羽柴秀吉明智光秀が戦い、信孝・秀吉が勝利する。
織田信孝・羽柴秀吉勢:高山重友中川清秀堀秀政池田恒興羽柴秀長黒田孝高、神子田半左衛門、加藤光泰木村重茲中村一氏加藤清正[羽柴秀吉勢]、栗山利安[黒田孝高勢]、堤教利[丹羽長秀勢](首級4)。
明智光秀勢:明智光秀[大将]、明智光近(戦死)、斎藤利宗伊勢貞興(戦死)、安田国継
敗れた光秀は勝龍寺城(山城国)に逃れる。夜、光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本(近江国)に向かう途中、山科にて一揆に殺害される。
秀吉は勝龍寺城に入城する。
出典:『兼見卿記』同年月日・14日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・15・17日条、豊臣秀吉披露状写(『浅野家文書』10号)、『清正記』1、『黒田家譜』巻2「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項、『丹羽歴代年譜附録』「家臣伝」

文禄1年 1592年 12月8日 37歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
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慶長1年 1596年 10月27日 41歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
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慶長2年 1597年 6月2日 42歳
安田国継が死去する。
出典:-

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