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軍役から石高算出
城 郭 史
大野城(越前国)
おおのじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒912-0087
福井県大野市城町3−109
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
金森長近
大野城(越前国) 年表
天正3年 1575年 9月2日
織田信長
が北庄(越前国)に移る。築城するため縄張りを打つ。
越前国内の内8郡を
柴田勝家
に給付する。大野郡の2/3を
金森長近
に、1/3を
原長頼
に給付する。今立郡・南条郡を
佐々成政
、
前田利家
、
不破光治
に給付する。
明智光秀
に丹波国攻めを命じる。丹後国を一色氏に給付する。丹波国桑田郡・船井郡を
細川藤孝
に給付する。
荒木村重
に播磨国奥郡攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」
天正5年 1577年 8月8日
上杉謙信
の攻撃を受けた
七尾城
(能登国)城主・長続連を救援すべく、
織田信長
は
柴田勝家
を大将として
滝川一益
、
羽柴秀吉
、
丹羽長秀
、
斎藤利治
、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
、
不破光治
、
前田利家
、
佐々成政
、
原長頼
、
金森長近
、若狭衆を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」
天正6年 1578年 11月10日
織田信長
が
荒木村重
に与同した
高槻城
(摂津国)の
高山重友
を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。
滝川一益
、
明智光秀
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、
氏家直昌
、
安藤守就
、
稲葉一鉄
を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。
織田信忠
、
北畠信雄
、
織田信包
、
神戸信孝
、
不破直光
、
前田利家
、
佐々成政
、
原長頼
、
金森長近
、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に
佐久間信盛
、
羽柴秀吉
、
松井友閑
、
大津長昌
を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『
姫路市史 史料編1
』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」
天正6年 1578年 11月18日
織田信長
の命により、
津田信澄
を
茨木城
(摂津国)への抑えとして置き、惣持寺(摂津国)寺中の要害普請に越前衆の
不破光治
、
前田利家
、
佐々成政
、
金森長近
、日根野備中、日根野弥次右衛門、
原長頼
をあたらせる。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事
天正7年 1579年 3月7日
織田信長
が古池田(摂津国)に陣取る。
織田信忠
、
不破光治
、
前田利家
、
佐々成政
、
原長頼
、
金森長近
等が
荒木村重
が籠る
有岡城
(摂津国)の四方に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」
天正7年 1579年 4月29日
荒木村重
の
有岡城
(摂津国)攻めのため同城周辺に在陣していた
不破光治
、
前田利家
、
佐々成政
、
原長頼
、
金森長近
が
織田信長
より帰城を許される。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」
天正9年 1581年 2月28日
織田信長
が京都にて馬揃を行う。正親町天皇が閲覧できるよう内裏の東に南北8町の馬場を、禁裏東門築地の外に行宮を設える。信長は、辰刻(7-9時)、
本能寺
を出立し、室町通を上って一条を東に曲がり馬場へと入場する。参列者は、一番に
丹羽長秀
・摂津衆・若狭衆・革島氏、二番に
蜂屋頼隆
・河内衆・和泉衆・根来寺の内衆の大ヶ塚・佐野衆、三番に
明智光秀
・大和衆・上山城衆、四番に村井作右衛門・根来衆・上山城衆、次いで連枝衆として
織田信忠
・美濃衆・尾張衆、
北畠信雄
・伊勢衆、
織田信包
、
織田信孝
、
津田信澄
、
織田長益
、織田又十郎、織田勘七郎、中根、織田竹千代、織田周防、織田孫十郎、公家衆として
近衛前久
・
正親町実彦
・
烏丸光宣
・日野中納言・高倉右衛門佐、細川昭元、
細川藤賢
、伊勢兵庫頭、一色左京権大夫、小笠原、越前衆として
柴田勝家
・柴田勝豊・柴田三左衛門・
不破光治
・
前田利家
・
金森長近
・
原長頼
。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事
天正9年 1581年 3月15日
小井手城(越中国)を
上杉景勝
が攻めていることを聞いた
織田信長
が、
不破光治
、
前田利家
、
原長頼
、
金森長近
、
柴田勝家
にすぐに越前国へ帰国し救援するよう命じる。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」
天正10年 1582年 2月3日
武田勝頼
が
木曽義昌
を攻めるとの報を受け、
織田信長
は、
徳川家康
に駿河口からの侵攻を、
北条氏政
に関東口からの侵攻を、
金森長近
に飛騨口からの侵攻を命じる。また、
織田信忠
が
森長可
・
団忠正
を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」
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