大永4年 1524年 6月27日 |
大内義隆が陶興房、杉伯耆守、杉勘解由、杉豊後守、問田掃部助、問田紀伊守とともに武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻める。 |
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」 |
大永4年 1524年 7月8日 |
尼子経久が大内義興・義隆父子の攻撃を受けている武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を救援すべく、亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000遣わすとともに、毛利元就・吉川国経・宍戸・平賀隆宗・三吉・小早川等の軍勢4000とともに佐東銀山城を攻める大内勢に対峙する。 |
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」 |
大永4年 1524年 7月10日 |
亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000を先陣、平賀隆宗・宮・三吉・宍戸勢の2200を二陣、毛利元就・吉川国経・小早川・熊谷・香川・三須勢の1700を三陣とし、佐東銀山城(安芸国)を包囲する大内義隆勢を攻める。大内勢は陶安房守・問田掃部助・青景越後守の軍勢3000を先陣として、杉豊後守の軍勢1000、杉伯耆守・杉民部大輔・仁保・豊田等の軍勢5000、弘中三河守・狩野入道・冷泉判官・千寿・秋月・高橋等の軍勢5000、陶興房・深野・宮川・野上・江良の軍勢3000が応戦する。 |
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」 |
大永4年 1524年 7月18日 |
武田信実が生まれる。 |
出典:- |
大永4年 1524年 8月5日 |
山内直通、宮下野守、杉原宮内少輔、三吉入道、吉川国経、毛利元就、熊谷信直、香川美作守、香川式部少輔、三須筑前守等が、佐東銀山城(安芸国)を包囲する陶興房に夜襲をかけるが、興房が追い払う。 |
出典:『陰徳太平記』巻5「毛利元就夜討之事」 |
大永4年 1524年 11月20日 |
松平乗勝が死去する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第9「松平乗勝」の項 |
大永4年 1524年 12月30日 |
左大弁となる。 |
出典:『系図纂要』「万里小路」 |
大永4年 1524年 -月-日 |
毛利元就に父・坂広明が謀反を起こしたことの責任をとり桂広澄が自害する。 |
出典:- |
大永5年 1525年 -月-日 |
滝川一益が生まれる。 |
出典:- |
大永5年 1525年 -月-日 |
山岡景隆が生まれる。 |
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大永5年 1525年 -月-日 |
武田信繁が生まれる。 |
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大永5年 1525年 -月-日 |
今田経高が生まれる。 |
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大永5年? 1525?年 -月-日 |
朝倉景鏡が生まれる。 |
出典:- |
大永5年 1525年 3月-日 |
大内義興が筑前国に出陣する。 |
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢敗軍付義興筑前ノ国発向之事」 |
大永5年 1525年 4月5日 |
関白・内覧、藤氏長者となる。 |
出典:『系図纂要』「近衛」 |
大永5年 1525年 4月13日 |
鞍馬寺勧進聖 真海に上人号を賜ったことについて、真海の上人号勅許を推挙した細川高国が禁裏へ盆・香合を進上する。 |
出典:『実隆公記』同年月日条 |
大永5年 1525年 4月16日 |
上杉憲房が死去する。 |
出典:『関八州古戦録』巻1「山ノ内扇カ谷両上杉ノ事」 |
大永5年 1525年 4月21日 |
細川高国が出家剃髪する。 |
出典:『厳助大僧正記』同年月日条 |
大永5年 1525年 7月23日 |
庭田重保が生まれる。 |
出典:『系図纂要』「庭田」 |
大永5年 1525年 12月15日 |
権中納言となる。 |
出典:『系図纂要』「万里小路」 |
大永5年 1525年 12月29日 |
幕府が三宝院義堯に、足利義晴の石清水八幡宮参詣につき力者を賦課したところその課役を拒否し醍醐寺より離山した者の成敗を命じる奉行人奉書を発給する。署名は飯尾貞運、松田亮致。 |
出典:大永5年12月29日付室町幕府奉行人連署奉書(『醍醐寺文書』12巻-2669号) |
大永6年 1526年 -月-日 |
豪盛が生まれる(『東塔』「正覚院」の項より逆算)。 |
出典:- |
大永6年 1526年 -月-日 |
武田義統が生まれる。 |
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大永6年 1526年 -月-日 |
尾張国海東郡蜂須賀村にて蜂須賀正勝が生まれる。 |
出典:『系図纂要』「蜂須賀家」 |
大永6年 1526年 -月-日 |
施薬院全宗が生まれる。 |
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大永6年 1526年 -月-日 |
生駒親正が美濃国可児郡土田村にて生まれる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』 |
大永6年 1526年 -月-日 |
新納忠元が生まれる。 |
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大永6年 1526年 -月-日 |
分部光高が生まれる。 *『寛政重修諸家譜』巻第392「分部光高」の項の没年・享年記載より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第392「分部光高」の項 |
大永6年 1526年 2月16日 |
足利義晴が石清水八幡宮に参詣する。細川高国が男山山上を、畠山稙長が義晴の宿院・善法寺を警固する。義晴の参詣にあたり、聖護院道増、広橋守光、烏丸光康、高倉永家、日野内光、賀茂在富、白川雅業、土御門有春、細川澄賢、畠山稙成、朽木稙綱、伊勢貞孝、伊勢備中守、結城左近将監、飯川能登守、蜷川式部少輔、能勢弥太郎、西郡四郎、上野民部大輔、小林五郎、三上大蔵、松田丹後守が供奉する。 |
出典:『陰徳太平記』巻6「石清水八幡宮造営付義晴将軍御社参之事」 |
大永6年 1526年 3月-日 |
織田信秀が津島城(尾張国)を訪れた連歌師 宗長をもてなす。 |
出典:『宗長手記』 |