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寛政重修諸家譜 索引(製作中)
史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
飯野城(日向国)
いいのじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
元和1年 1615年
別 称
亀城、鶴亀城
現 所 在 地
〒889-4301
宮崎県えびの市原田
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
島津義弘
、
島津久保
飯野城(日向国) 年表
永禄7年 1564年 -月-日
島津義弘
が
伊東義祐
への抑えとして飯野城(日向国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項
天正5年 1577年 12月11日
佐土原(日向国)にて
島津義久
と
伊東義祐
が戦い、義久が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項
天正6年 1578年 11月-日
島津義久
が大友勢に攻められている高城(日向国)の山田有信を救援すべく、領内の15-60歳の者を動員し、内城(薩摩国)を軍勢40000にて発ち、佐土原(日向国)に着陣し、同地を本陣とする。
出典:『豊薩軍記』巻2「義久佐土原著陣並大友方軍評定之事」
天正6年 1578年 11月12日
耳川にて田北鎮周、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、角隈石宗等が率いる大友勢と
島津義久
が戦い、義久が勝利する。大友方は鎮周、惟教、惟真、鎮忠、石宗、臼杵統景、蒲池鑑盛、蒲池統安が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項、『豊薩軍記』巻2「高城河原合戦並大友諸将討死事」
天正15年 1587年 1月25日
島津義久
成敗につき、
宇喜多秀家
(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 2月1日
島津義久
成敗につき、
宮部継潤
・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月5日
島津義久
成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、
福島正則
(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、
高山重友
(軍勢1300)、
細川忠興
(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月10日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀長
(軍勢15500)、
筒井定次
(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月15日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀勝
(軍勢5000)、
丹羽長重
(軍勢500)、
生駒親正
(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月20日
島津義久
成敗につき、
前田利長
(軍勢3000)、
長谷川秀一
(軍勢1700)、
堀秀政
(軍勢3000)、
木村重玆
(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、
溝口秀勝
(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、
太田一吉
(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 2月25日
島津義久
成敗につき、
蒲生氏郷
(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、
九鬼嘉隆
(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、
池田輝政
(軍勢1000)、
森忠政
(軍勢1000)、
稲葉典通
(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条
天正15年 1587年 3月1日
島津義久
成敗につき、
豊臣秀吉
(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。
蜂屋頼隆
(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、
石川数正
(軍勢500)、
佐々成政
(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、
矢部家定
(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、
古田重然
(軍勢130)、
稲葉方通
(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、
浅野長政(軍勢1200)
、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、
富田信広
(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、
片桐且元
、
糟屋武則
(軍勢150)、
池田長吉
(軍勢400)、
川尻秀長
(軍勢120)、
加藤清正
(軍勢170)、
古田重勝
(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、
青木一重
(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として
豊臣秀次
を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 3月29日
豊臣秀吉
が
小倉
(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は
豊臣秀長
を大将に
毛利輝元
・
吉川元長
・
小早川隆景
・
宇喜多秀家
・
黒田孝高
・
宮部継潤
・亀井茲矩・
蜂須賀家政
・
長宗我部元親
・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・
大友義統
の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』
天正15年 1587年 4月1日
豊臣秀勝
、
前田利長
、
蒲生氏郷
率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、
豊臣秀吉
は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1
天正15年 1587年 4月2日
豊臣秀吉
が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した
秋月種実
は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・
種長
とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」
天正15年 1587年 4月4日
豊臣秀吉
が
秋月種実
の居城・荒平山城(筑前国)に入る。
生駒親正
が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月11日
豊臣秀吉
が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月11日
豊臣秀吉
が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎
が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」
天正15年 1587年 4月13日
豊臣秀吉
が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月16日
豊臣秀吉
が
熊本城
(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月17日
宮部継潤
が守る根白坂砦(日向国)を
島津家久
が攻める。
豊臣秀長
が救援に赴き、麾下の
藤堂高虎
と
宇喜多秀家
勢の
戸川達安
が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』
天正15年 1587年 4月19日
豊臣秀吉
が
宇土城
(肥後国)に入城する。
熊本城
(肥後国)に
富田知信
を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 4月21日
豊臣秀吉
が
八代城
(肥後国)に入城する。
宇土城
(肥後国)に
加藤清正
を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月5日
豊臣秀吉
が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月6日
島津義久
が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の
豊臣秀吉
のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」
天正15年 1587年 5月8日
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の
豊臣秀吉
のもとに剃髪した
島津義久
が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」
天正15年 1587年 5月9日
豊臣秀吉
が
島津義久
に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)
天正17年 1589年 -月-日
島津義弘
が
飯野城
(日向国)より
栗野城
(大隅国)に移る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項
文禄2年 1593年 9月7日
島津久保
が巨済(朝鮮)にて死去する。
出典:(文禄2年)閏9月23日付島津龍伯追悼和歌(『島津家文書』3-1451号)
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