地 名 の 歴 史

河内国[国] かわちのくに
初 見-
河内国
交野郡、讃良郡、茨田郡、若江郡、河内郡、高安郡、大県郡、渋川郡、志紀郡、安宿郡、八上郡、古市郡、石川郡、錦部郡、丹比郡
荘 園-
中 世 高-
近 世 領 主-
近 世 石 高-
鎮 守-
神 社枚岡神社
寺 院-
城 郭河内国の城郭
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
河内国[国] 年表
正慶2年 1333年 4月27日 
船上山(伯耆国)で挙兵した後醍醐天皇を討つため北条高家が京都を発つ。久我畷(河内国)にて千草忠顕・結城親光・赤松則村と戦い、戦中、佐用範家に眉間を射られ戦死する。
出典:『太平記』、『梅松論』、『関城書裏書』

応永13年 1406年 1月17日 
畠山基国が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第98「清和源氏 義家流 足利支流 畠山」「畠山基国」の項

永禄5年 1562年 3月5日 
久米田(河内国)にて畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 3月6日 
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄7年 1564年 5月9日 
三好長慶飯盛山城(河内国)にて弟・安宅冬康を呼び出し、冬康を自害させる。
出典:『言継卿記』永禄同年月10日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄7年 1564年 7月24日 
三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

天正1年 1573年 11月-日 
織田信長の命をうけた佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)、『綿考輯録』巻2

天正1年 1573年 11月-日 
佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川
義継家臣の多羅尾右近・池田教正・野間佐吉が信盛に内通し、金山武春を殺害して、若江城(河内国)城内に織田勢を引き入れる。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正1年 1573年 11月16日 
若江城(河内国)にて三好義継が自害する。那須久右衛門、岡飛騨守、江川が殉死する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

慶長19年 1614年 4月23-27日 
畿内にて大雨により川の洪水が起こる。京都(山城国)では下京の町末の小家が流される。守口(河内国)では堤が切れる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月28日 
江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。伊達政宗前田利光の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。本多正純を交え、大坂城(摂津国)にて豊臣秀頼が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条

慶長19年 1614年 11月3日 
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日 
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月6日 
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

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