天文20年 1551年 9月-日 |
三好之虎が東寺・同境内に軍勢の乱暴狼藉、陣取・寄宿、竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課、放火を禁じる禁制を発給する。 |
出典:天文20年9月日付三好之相禁制(東寺百合文書WEB「東寺百合文書」ヤ函192) |
天文20年 1551年 -月-日 |
長宗我部国親が山田丹波守の山田城(土佐国)を攻め、同城を落とす。 |
出典:『陰徳太平記』巻21「長宗我部国親討山田事」 |
天文20年 1551年 10月1日 |
三好長慶が富田(摂津国)に至る。 |
出典:(天文20年10月1日付斎藤基速書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-320号「東寺百合文書」) |
天文20年 1551年 10月24日 |
武田晴信が平瀬義兼の籠る平瀬城(信濃国)を攻める。 |
出典:天文20年10月24日付武田晴信感状(彰考館所蔵「感状写」『戦国遺文 武田氏編』第1巻-336号)他 |
天文20年 1551年 -月-日 |
進藤貞治が死去する。 |
出典:- |
天文20年 1551年 -月-日 |
横山(尾張国)にて織田信長と丹羽氏識・氏勝父子が戦い氏識・氏勝父子が勝利する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏識」の項 |
天文20年 1551年 -月-日 |
相良武任が死去する。 |
出典:- |
天文21年 1552年 -月-日 |
福留民部が生まれる。 『福富半右衛門親政法名浄安覚書』に天正14年(1586)9月21日に戦死し、享年35歳と記載されていることから逆算して天文21年(1552)を生年とした。 |
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書』 |
天文21年 1552年 -月-日 |
松平康元が尾張国知多郡阿古居にて生まれる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻52「松平康元」の項 |
天文21年 1552年 -月-日 |
松平康俊が生まれる。 『寛政重修諸家譜』巻53「松平康俊」の項にみえる没年・享年より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻53「松平康俊」の項 |
天文21年 1552年 -月-日 |
毛利元秋が生まれる。 |
出典:- |
天文21年 1552年 -月-日 |
水無瀬親具が生まれる。 |
出典:- |
天文21年 1552年 -月-日 |
森可隆が生まれる。 *『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の没年・享年記載より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項 |
天文21年 1552年 -月-日 |
中沢貞勝が生まれる。 *『寛政重修諸家譜』巻第131「中沢某」の項の没年・享年記載より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第131「中沢某」の項 |
天文21年 1552年 -月-日 |
分部光嘉が伊勢国にて生まれる。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第392「分部光嘉」の項 |
天文21年 1552年 -月-日 |
楠正家が生まれる。 *『寛政重修諸家譜』巻第582「楠正家」の没年・享年記載より逆算。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第582「楠正永」の項 |
天文21年? 1552?年 -月-日 |
横田村詮が生まれる。 |
出典:- |
天文21年 1552年 1月2日 |
舅・六角定頼が死去する。 |
出典:- |
天文21年 1552年 1月2日 |
六角定頼が死去する。 |
出典:- |
天文21年 1552年 1月13日 |
多賀社不動坊配下の祐賢(宮内卿法師)が、山科言継のもとを訪れ、前年に勅筆を賜ったことへの礼として鳥子紙100枚を贈る。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文21年 1552年 1月15日 |
小山新四郎が山科言継のもとに年始の礼として訪れ、砂糖1桶を贈る。言継と対面し酒を賜る。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文21年 1552年 1月-日 |
陶晴賢が杉重政を攻める。重政は自害する。 |
出典:『陰徳太平記』巻19「陶晴賢討杉重政事」 |
天文21年 1552年 1月20日 |
京において足利義藤が23日に坂本(近江国)から上洛するのではないかと噂される。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文21年 1552年 1月22日 |
大納言となる。 |
出典:『系図纂要』「広橋」 |
天文21年 1552年 1月23日 |
小山田信有が死去する。 |
出典:- |
天文21年 1552年 1月24日 |
足利義藤が朽木(近江国)から比良(近江国)を経て、未下刻(14:00頃)比叡辻(近江国)に移る。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文21年 1552年 1月26日 |
仙石秀久が生まれる。 |
出典:- |
天文21年 1552年 1月28日 |
足利義藤が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。伊勢貞孝被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、大舘晴光、上野信孝、大舘晴忠、朽木稙綱、細川中務大輔、伊勢貞孝、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、近衛稙家、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。 義藤、聡明丸の上洛につき、三好長慶が麾下の国衆を辻固めに動員し、三好長逸、松永久秀を遣わして逢坂にて出迎える。 六角義賢の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に東寺に到着する。三好千熊丸が聡明丸を出迎える。 細川晴元は足利義藤の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。 |
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」 |
天文21年 1552年 2月10日 |
飛鳥井雅春が山科言継を夕飯に呼び、言継の従者である大澤重成とともに狸汁を食す。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
天文21年 1552年 2月22日 |
千本釈迦堂大報恩寺の養命坊と善法坊が山科言継のもとを鈴一対と台物をもって訪れる。言継は砂糖餅の吸い物を振る舞う。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |