永禄10年 1567年 9月5日 |
畠山高政、根来寺連判衆の総勢3000が幸田城を攻める。吐田と戦い敗れ、紀伊国伊都郡に撤退する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 9月6日 |
飯盛山城(河内国)が三好長逸、三好宗渭、岩成友通、篠原長房に降伏すると報告がある。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 9月13日 |
根来寺衆がエホシカタノ城(河内国)を攻めるが敗れる。 |
出典:『多聞院日記』同年月15日条 |
永禄10年 1567年 9月19日 |
菅正利が播磨国揖東郡越部村にて生まれる。 |
出典:『菅氏世譜』 |
永禄10年 1567年 9月22日 |
田原の坂上氏が松永久通に寝返る。 松永久秀が飯盛山城(河内国)に軍勢500を入れる。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 10月1日 |
三好宗渭が河内国に移る。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 10月3日 |
武芸八幡寺に織田信長が寺領安堵した旨を伝える連署状を坂井政尚、森可成が発給する。 |
出典:(永禄10年)10月3日付坂井政尚・森可成連署状(「武芸八幡宮文書」『織田信長文書の研究』上巻 76号-参考) |
永禄10年 1567年 10月9日 |
聖護院道澄が10日、巳刻(9-11時)に大峰入峰のため聖護院を出発するため、参内し挨拶に赴く。 |
出典:『言継卿記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 10月10日 |
松永久秀が三好長逸、三好宗渭、岩成友通の軍勢が陣取る東大寺大仏殿に、子刻初点(11時)夜襲をしかけ三好勢を破る。三好三人衆の軍勢が鑓中村ほか200-300人討死する。この戦いにより穀屋より出た火が法華堂、大仏殿の廻廊に移り、丑刻(1-3時)に大仏殿が炎上する。大仏殿のほか、念仏堂、唐禅院、四聖坊、安楽坊、深井坊が焼失する。 氷室山に陣取っていた別所勢と郡山の辰巳勢は陣所を自ら焼き払う。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月11日条 |
永禄10年 1567年 10月12日 |
多聞山城(大和国)の松永家の城兵が新造屋、瓦の屋に押し入り道具・聖教等を奪う。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 10月19日 |
武田義信が自害する。 |
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「清和源氏 義光流 武田」「武田義信」の項 |
永禄10年 1567年 10月20日 |
千宗易、今井宗久が宗甫の茶会に参会する。 |
出典:『今井宗久茶湯書抜』同年月日条 |
永禄10年 1567年 10月20日 |
黒山(山城国)に攻め寄せた三淵弾正、香西、宇治田原の足利勢に対し、三好長虎は三如来堂に布陣していたが、夜の内に普賢寺谷まで移った後、黒山の公方勢を攻め100余人を討ち取る。 |
出典:『多聞院日記』同年月23日条 |
永禄10年 1567年 10月21日 |
飯盛山城(河内国)に籠城していた松山安芸守と山口が堺に逃亡する。同城は三好長逸と篠原長房が請け取り入城する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 10月21日 |
畠山安枕斎が上洛し相国寺に宿泊する。 |
出典:『晴右記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 10月22日 |
勧修寺晴秀が畠山安枕斎に樽代を、畠山伊豆守に太刀を贈る。 |
出典:『晴右記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 10月23日 |
村上通康が死去する。 |
出典:- |
永禄10年 1567年 10月25日 |
畠山安枕斎が勧修寺晴秀のもとに礼に訪れる。 |
出典:『晴右記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 10月26日 |
池田勝正が軍勢を少し奈良(大和国)に残し、摂津国に撤収する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 11月2日 |
三好長逸、三好宗渭、岩成友通の軍勢と松永久秀の軍勢が春日社大鳥居にて戦う。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 11月3日 |
山科言継、勧修寺晴秀が富田(摂津国)に居す足利義栄のもとへ赴き、太刀をもって礼をする。義栄と対面する。義栄の父・足利義冬にも礼をする。申次は畠山伊豆守。 |
出典:『晴右記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 11月4日 |
勧修寺晴秀が富田(摂津国)より京都に戻る。 |
出典:『晴右記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 11月17日 |
伊勢貞助が勧修寺晴秀のもとを訪れる。外記を召し寄せ、将軍宣下について談合する。 |
出典:『晴右記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 11月18日 |
禁裏供御御料所のことにつき若狭国は朝倉義景よりの進納を期待していることを義景に伝えるよう勧修寺晴秀が福寿院に命じる。 |
出典:『晴右記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 11月27日 |
松永久秀・久通父子が連署で春日社に春日社山内諸屋での乱妨・強盗、剥ぎ取り、田畠への侵入、神鹿殺害、木材伐採を禁じる禁制を発給する。 春日社防御の制札発給につき多聞院英俊が20疋を久秀に贈る。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 11月27日 |
三好義継が春日社に春日社山内諸屋での乱妨・強盗、剥ぎ取り、田畠への侵入、神鹿殺害、木材伐採を禁じる禁制を発給する。 春日社防御の制札発給につき多聞院英俊が20疋を義継に贈る。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 11月-日 |
篠原長房、三好康長が連署で、招堤寺(河内国)に三好・篠原勢の濫妨狼藉、竹木伐採、矢銭・兵糧米の賦課を停止する旨の禁制を発給する。 |
出典:永禄10年11月日付篠原長房・三好康長連署禁制写(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1375号「河端氏所蔵文書」) |
永禄10年 1567年 11月-日 |
伊達輝宗が亀岡八幡宮を伊達郡西山から同郡梁川に移し、宝殿を造営するにあたり、一家・一族に奉加として100疋を供出を命じる。 |
出典:『性山公治家記録』同年月条 |
永禄10年 1567年 12月2日 |
興福寺が近衛前久を介し寺内における松永勢の陣取りを止めるよう松永久秀に依頼するも久秀は拒否する。 |
出典:『多聞院日記』同年月日条 |
永禄10年 1567年 12月23日 |
黒田孝高が符寺にある上村弥三郎の闕所地であった田地1反を1貫文で称名寺に売り渡す。 |
出典:永禄10年12月23日付小寺祐隆下地売券(「正明寺文書」『軍師官兵衛』) |