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永禄11年 1568年 1月30日
水無瀬、勧修寺晴右二条晴良のもとへ赴く。
曇華院へ礼に赴く。杉伊、加州と将軍宣下について談合する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月3日
勧修寺晴右、畠山安枕斎、水無瀬が将軍宣下について談合する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月4日
将軍宣下について談合する。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月8日
足利義栄の将軍宣下が行われる。
出典:『晴右記』同年月日条

永禄11年 1568年 2月-日
河野通直・通宣が宇都宮豊綱方の上須戒城(伊予国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻41「伊予国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 2月24日
河野通直・通宣が宇都宮豊綱方の上須戒城(伊予国)を攻め、同城を落とす。吉川元春小早川隆景が率いる毛利勢が下須戒城(伊予国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「伊予国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 2月-日
益田元祥が元服のため吉田郡山城(安芸国)の毛利元就のもとを訪れる。満願寺(安芸国)にて能が催される。
出典:『桂岌円覚書』

永禄11年 1568年 3月21日
西陣へ番替えとして高屋衆(三好備中守、大嶋助兵衛、遊佐安芸守、加地六郎兵衛)、三鬼鎰助、カイノ庄助丞、木村宗也ら1500が着陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月25日
三好義継が伴田に移る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 3月-日
三好長逸岩成友通三好宗渭が連署で、東福寺および同門前境内に三好勢の濫妨・狼藉、山林竹木の伐採、寄宿、矢銭・兵粮米の賦課、放火を停止する禁制を発給する。
出典:永禄11年3月日付三好三人衆連署禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1396号「東福寺文書」)

永禄11年 1568年 3月-日
徳川家康掛川城(遠江国)を攻める。先陣を松平一信、榊原康政がつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄11年 1568年 4月2日
東大寺大仏殿再興について清玉が申し出たこと称える書状を松永久秀が清玉に発給する。
出典:(永禄11年)4月2日付松永久秀書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1398号「阿弥陀時文書」)

永禄11年 1568年 4月3日
小島(陸奥国伊達郡)にて伊達輝宗と相馬盛胤が戦う。参戦者は伊達方が瀬上景康。
出典:『性山公治家記録』同年月日条

永禄11年 1568年 4月18日
東大寺大仏殿再興について、三好長逸が洛中洛外諸寺諸山への勧進を勧める書状を清玉に発給する。
出典:(永禄11年)4月18日付三好長逸書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1399号「阿弥陀時文書」)

永禄11年 1568年 4月18日
観行房景盛を清水寺本願職に補任する。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)

永禄11年 1568年 4月晦日
三好長逸が、稲葉一鉄よりの音信として斎藤利三が使者として上洛し長逸に十文字鎌を贈ってくれたことについて返書を出し謝意を示すとともに織田信長への執り成しを依頼する。
出典:(永禄11年)4月晦日付三好長逸書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1400号「保阪氏所蔵文書」)

永禄11年 1568年 4月-日
篠原長房三好宗渭が連署で、牧郷一宮(河内国)に三好・篠原勢の濫妨狼藉、竹木伐採、作毛荒し、家の破壊・資材奪取、放火を停止する旨の禁制を発給する。
出典:永禄11年4月日付篠原長房・三好宗渭連署禁制写(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1401号「河端氏所蔵文書」)

永禄11年 1568年 5月7日
東大寺大仏殿再興について、正親町天皇より三好長逸に奉加に応じるように依頼する綸旨が発給される。
出典:(永禄11年)5月7日付正親町天皇綸旨案(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1402号)

永禄11年 1568年 5月13日
三好康長が向井専弘より春日社造営につき材木の供出に難色を示している興福寺を説得するよう依頼される。
出典:(永禄11年)5月13日付向井専弘書状写(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1407号「春日大社文書」)

永禄11年 1568年 5月14日
三好康長興福寺に対し春日社造営につき材木の供出に応じるよう依頼する。
出典:(永禄11年)5月14日付三好康長書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1408号「春日大社文書」)

永禄11年 1568年 5月19日
篠原長房三好宗渭が津田城より山城国を打ち回る。その後、西京に陣取り、奈良(大和国)には入らず。
長房が西京(大和国)あたりに陣取ることを聞いた筒井順慶が寺中へ陣取らないようにと長房に要請する。
出典:(永禄11年)5月19日付筒井順慶書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1409号「薬師寺文書」)、『多聞院日記』同年月22日条

永禄11年 1568年 5月24日
篠原長房三好宗渭春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 5月29日
篠原長房三好宗渭が軍勢を奈良(大和国)に少し残し河内国に撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 5月-日
篠原長房が西大寺に篠原勢の濫妨狼藉、山林竹木の伐採、作毛、矢銭・兵糧米の賦課を停止する旨の禁制を発給する。
出典:永禄11年5月日付篠原長房禁制(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1411号「西大寺文書」)

永禄11年 1568年 6月2日
筒井順慶が喜多院の家の北の石切町に城を築く。櫓・塀の普請課役を奈良一円に賦課する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 6月23日
細川藤孝・上野清信・明智光秀岐阜城(美濃国)に居る織田信長のもとに赴き、足利義昭の上洛を依頼する。
出典:『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 6月29日
三好康長信貴山城(大和国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月16日
足利義昭織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に向かうべく一乗谷(越前国)を発つ。朝倉景恒と前波景当が国境まで警護する。義昭は浅井長政の館に入る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条、『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月16日
マメ山に布陣していた中村為三と筒井順慶勢が入れ替わる。篠原勘介が在番する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 7月16日
東大寺大仏殿の仮屋用の材木について天満山の木を大乗院が寄進する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

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