人 物 史

斎藤龍興 さいとう たつおき
生 没 年天文17年(1548)-天正1年(1573)8/14
出 身-幼 名-
別 称喜太郎
法 名-
戒 名-
斎藤義龍-
兄 弟 姉 妹斎藤龍興
配 偶 者-
-
官 位右京大夫
役 職-
城 郭稲葉山城(美濃国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ斎藤龍興の関連文化財
斎藤龍興の家臣
斎藤龍興 年表
天文17年 1548年 -月-日 1歳
斎藤龍興が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 8歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 4月18日 9歳
斎藤道三が鶴山(美濃国)に陣取る。斎藤義龍が乾に陣取る。
出典:『江濃記』「道三最後之事」

弘治2年 1556年 4月20日 9歳
長良川(美濃国)にて斎藤道三斎藤義龍が戦い、道三が戦死する。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 11歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 13歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄4年 1561年 5月11日 14歳
父・義龍が死去する。
出典:-

永禄4年 1561年 5月14日 14歳
森部の合戦にて織田信長斎藤龍興が戦う。
出典:『信長公記』首巻(36)「もりべ合戦の事」

永禄4年 1561年 5月23日 14歳
十四条の合戦にて織田信長斎藤龍興が戦う。
出典:『信長公記』首巻(37)「十四条合戦の事」

永禄5年 1562年 5月-日 15歳
賀留美(美濃国)にて織田信長斎藤龍興が戦う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田信輝」の項

永禄7年 1564年 3月-日 17歳
浅井長政が軍勢6000を率い美濃国に攻め入る。
出典:『江濃記』「道三最後之事」

永禄9年 1566年 9月5日 19歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)にて城普請を始める。
斎藤龍興が墨俣(美濃国)で城普請をしている織田信長勢を攻め、織田勢は応戦する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月7日 19歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)にて普請をした城がおおよそ竣工する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月24日 19歳
斎藤龍興が墨俣城(美濃国)を攻める。墨俣城在番の木下秀吉蜂須賀正勝稲田植元が応戦し、龍興勢を退ける。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄10年 1567年 8月1日 20歳
稲葉良通氏家卜全安藤守就織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』首巻(44)「いなは山御取り候事」

永禄12年 1569年 1月1日 22歳
三好康長三好宗渭三好長逸斎藤龍興が家原城(和泉国)を攻める。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月23日 23歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 7月27日 23歳
三好康長三好長逸三好宗渭、三好為三、岩成友通、東条行長、松山重治、斎藤龍興、長井道利等が中島天満森(摂津国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 7月29日 23歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月9日 23歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月13日 23歳
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月17日 23歳
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、三好義継畠山昭隆伊丹親興・遊佐の軍勢が籠る古橋城(河内国)を攻める。
出典:『尋憲記』同年月20日条、『言継卿記』同年月18日条、『多聞院日記』同年月18日条、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月26日 23歳
織田信長天王寺に陣取り、諸勢を天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に展開し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、香西佳清、三好為三、斎藤龍興、長井道利が陣取る野田・福島(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月12日 23歳
足利義昭織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月13日 23歳
本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月14日 23歳
本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 23歳
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

天正1年 1573年 7月28日 26歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月13日 26歳
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 26歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

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